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中国文学映画関連 備忘録

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張愛玲,楊絳『浪漫都市物語―上海・香港’40S』収録作品

『浪漫都市物語―上海・香港’40S』は、張愛玲,楊絳の小説やエッセイなどを収録したもの。

張愛玲の代表作などが収録されています。


『封鎖』張愛玲作 清水賢一郎訳
物語の舞台は、日本軍によって占領されている戦時中の上海。街が封鎖されて静まった後、電車はただ停止します。そして、呂宗楨は同じ電車に乗っていた義理の甥に話しかけることを恐れて、呉翠遠を口説き始めます。もともと全く偶発的かつ無意味な内容のはずでしたが、翠遠の胸中には動悸と同情が沸き起こります。そして、二人の間には奇妙な連帯感が生まれます。しかし、封鎖が終わると、呂宗楨は去ります。そして、呉翠遠は「封鎖機関中のすべては、発生しなかったのと同じ」という呂宗楨の考えを察知します。


『戦場の恋-香港にて』 張愛玲作 上田志津子訳
孤島期の上海と、開戦前後の香港を舞台としたロマンス。白流麗は、困窮しながらプライドだけは捨てない一族の中で生活しています。一度離婚して家に帰ってきたため、非常に差別的な扱いを受けています。その後、白流麗は、妹のお見合いの時、偶然、華僑の青年実業家・範柳原と出会い、ダンスします。そして、香港に赴き、範柳原と過ごすことになります。結婚は「長期間の売春」だという範柳原と、結婚を求める白流麗の間に駆け引きが始まります。一度、白流麗は白家の館に帰ります。しかし、範柳原に呼び戻されて、範柳原の情婦となります。範柳原は商売のためイギリスに赴こうとしますが、開戦したため船が出ず、戦火で範柳原と白流麗は「真心」で結ばれた夫婦となります。


『香港-焼け跡の街』張愛玲作 清水賢一郎訳
戦時下の香港で過ごした日々を綴った文章。他者に対する鋭い視線が非常に印象に残ります。そして、「私たちの身勝手さと虚しさ、恥知らずで愚かしい私たち」という表現など達観した考え方もよく描かれています。


『囁き』張愛玲作 清水賢一郎訳
張愛玲自身の経歴をまとめた文章。1921年上海生まれ。幼いころから、父のもとで唐詩・古典を学びました。母親は家族を置いて、3歳の時、叔母とともにフランスに去りました。父は妾を家に入れて、遊び暮らしました。しかし、妾によって一家がかき回されたため、妾は追い出されました。四年後母親が帰国するも、アヘン中毒の父親と離婚して、再びフランスに行きました。張愛玲は聖マリア女学校に入学して寄宿生活に入りました。その後、張愛玲は母親との関係などか原因となって、父親と継母に激しく折檻されて半年間監禁されますが、翌年に脱出して母親を頼り、生活し始めました。


『やっぱり上海人』張愛玲作 清水賢一郎訳
張愛玲が上海に対する愛をつづった文章。張愛玲が上海人をどのように見ているかということがまとめられているので、興味深いです。「上海人の第一印象は色白と肥満」。「第二の印象は「通」」、具体的には文章のあやなど。

上海人とは伝統的中国人にモダンライフの高圧力をすけて磨き上げたものだ、という表現、上海人は悪だという表現などは面白いです。


『ロマネスク』楊絳作 桜庭ゆみ子訳
楊絳は銭鍾書の妻。『ロマネスク』はロマンス。悪人と協力している女性をすくいだそうとしたが結局うまくいかない少年の物語。


『叔母の思い出』楊絳作 桜庭ゆみ子訳
叔母・楊蔭榆の思い出を綴った文章。楊蔭榆は北京女子師範大学の学長だったとき、政府の意向に沿って保守的な政策をとったため、女学生や女学生を支持する魯迅たちから激しく批判されたことで有名な人物です。

日本東京女子高等師範学校(現在御茶の水女子大学)で学び、アメリカのコロンビア大学で修士号をとりました。そして、教育者として北京女子師範大学の学長になりました。しかし、学生との争いの結果辞任。蘇州に帰り、近隣の学校で教鞭をとりました。抗日戦争の間には、蘇州に住み、日本軍が乱暴強姦などを行っていることに怒り、何度も日本軍に抗議に行きました。そして、射殺されて河に放り込まれました。

楊蔭榆は、離婚した後は、女性としての幸福やおしゃれには全く興味を示さなかったと楊絳は綴っています。偏屈、という言葉で形容しています。
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孫文「『保皇報』を駁する」

「『保皇報』を駁する」は、孫文が、中国の現状を分析した文章。

『原典中国近代思想史 第三冊』に収録。

1904年、ホノルル『隆記報』に掲載。

ホノルル
『保皇報』に掲載された文章に対する反論。激しくその非を指摘する内容となっています。たとえば、英語に対する無理解など。

孫文の舌鋒の鋭さは非常に印象的です。批判の応酬の中で孫文の主張が鍛えられたのかも知れない、と感じます。


小林文男『中国現代史の周辺』収録作2

『中国現代史の周辺』は、小林文男による中国現代史に対する考察をまとめたもの。1976年出版。アジア経済研究所。

「知られざる抗日運動 日本統治下における台湾民衆の志向」
台湾の反帝国主義運動をまとめた文章。台湾にも共産党があり、日本共産党、中国共産党と協力しながら日本による支配に抵抗しました。事実、日台の連帯を目指した党書記長、渡辺政之輔は台湾の基隆で死亡しました。また、当初は台湾民主国設立を目指して、のちには辛亥革命に呼応して、光復(異民族排除と祖国の回復)を目指す武力闘争が起こりました。とくに、孫文の革命同盟会と呼応して行動した羅福星などが顕著な例です。さらに、武力闘争が鎮圧化されたあとも、文化協会などを中心として、同化への拒否がはかられました。


「矢内原忠雄の中国観 その「反戦」「反侵略」の論理」
自由主義的立場にたつ植民政策学者として、日本政府による中国侵略に反対して東大を追われた矢内原忠雄に関してまとめた文章。矢内原忠雄は1930年代以降、満州などの中国問題に強い関心を示していました。そして、中国人には国家心がないと指摘する人々を批判して中国統一の動きを注視して、日本は対等にそれと向き合うべきだと主張しました。反戦の論理をつづった『国家の理想』『神の国』などは1937年8月発売されると即座に発禁となり、12月矢内原は東大を去りました。


「一つの時代の終焉 蒋介石の死とその「三民主義」」
1975年4月に亡くなった蒋介石の思想を、小林文男がまとめた文章。蒋介石は孫文の後継者として登場して、国民党を率いました。思想の面でも孫文の「三民主義」を引き継ぎました。しかし、1927年、4・12クーデターで共産党員を弾圧、虐殺して、国共内戦を引き起こしました。小林文男は、蒋介石などの「三民主義」はもともとブルジョア的民族改良主義としての限界があったため事件は起きたと指摘します。ただ、その後蒋介石は執拗に共産党を滅ぼそうとしました
小林文男は、その原因を、蒋介石が、共産党に「三民主義」を横取りされたと感じていたからではないか、と推測します。実際、共産党は農村で民生主義を体現するかのようなシステムをつくりあげました。一方、蒋介石は、民生主義に基づいた具体的な農村政策の導入に失敗しました。だから、蒋介石は焦ったのでは、というのです。ただ、民生主義は国家資本主義の方向では努力して一定の成果をあげました。さらに、第二次国共内戦で敗れたあと、蒋介石は台湾では民生主義に基づいた施策で成功しました。ただ、アメリカの支援があり、元大日本帝国の放棄した土地を分配することができた、など、恵まれた環境にあったから、ともいえますが。


「「アジア的生産様式」とは何か フェレンツ・テーケイ博士の所説」
小林文男による、ハンガリーのマルクス主義研究者フェレンツ・テーケイ博士へのインタビューをまとめたもの。どのように当時の状況下で人々がものごと(たとえば、中国とソ連の関係や文化大革命など)を考えていたのか、わかります。

「ソ連の中国研究 あわせて若い世代のアジア観の問題」
小林文男がソ連を訪問した時の感覚をまとめたもの。当時、中国とソ連の関係は冷え込んでいました。だから、小林文男は中国とソ連は遠い、と形容します。とくに、その差はアジアとヨーロッパの差なのでは、と書いています。そして、ソ連側の研究者は中国側を厳しく批判していて、その上文化大革命の中国に関する情報がないので、歴史研究に偏っていた、と小林文男は指摘します。また、ソ連の若者がドイツにあこがれて、中国に全く興味を持っていない様子だと記しています。

「鄧小平の失脚 結びにかえて」
1976年の天安門事件のため、鄧小平が失脚した頃だったのでそれに関して感想が綴られています。


今からすると、「ソ連の中国研究 あわせて若い世代のアジア観の問題」の内容などは隔世の感です。

小林文男『中国現代史の周辺』収録作1

『中国現代史の周辺』は、小林文男による中国現代史に対する考察をまとめたもの。1976年出版。アジア経済研究所。

当時の時代状況を垣間見ることができて非常に興味深いです。たとえば、当時、文化大革命や毛沢東に対してどのように判断を下すか、ということが、中国関係者にとって大きなテーマとなっていたことがよく伝わってきます。


「栄光、そして挫折 悲劇の歴史家呉晗氏のこと」
中国の歴史家、呉晗が『海瑞罷官』を執筆したために糾弾されて非業の死を遂げた経緯をまとめたもの。その糾弾は、文化大革命が始まるきっかけとなりました。

小林文男は、呉晗が聞一多から思想的に影響されたことを指摘します。また、歴史家として、『朱元璋伝』を執筆して貧民から皇帝にのぼりつめた朱元璋を描いたため、毛沢東に気に入られたのではないかと分析します。そして、政治的に抜擢されて北京市副市長になり、その上整風運動などでは全く批判されませんでした。しかし、1966年、『海瑞罷官』が、大躍進製作を批判して失脚した彭徳懐を庇う内容だとして呉晗も失脚しました。

小林文男は、呉晗とじっさいに交流した数少ない日本人の一人として、呉晗のことを綴っています。


「毛沢東の階級概念 文化大革命について」
劉少奇は、毛沢東や毛沢東を信奉する紅衛兵によって、「毛沢東に背いた」「プロレタリアートに背いた」と批判されて失脚しました。小林文男はその毛沢東の意見を疑い、逆に、毛沢東の意見が変化したのだ、と指摘します。

小林文男は、中国とソ連が対立関係にいたった原因、そして、文化大革命が始まった原因は、毛沢東が、突如として「社会主義社会にも『階級』があり、それとの闘争は、社会が共産主義の段階にはいるまで不断に続く」という考え方を提出したため、とみます。その考え方は、1957年の毛沢東自身が発表した「社会主義社会の矛盾は、敵対的な矛盾ではなく、社会主義制度自体によってたえず解決することができるものであり、わが国においては、革命期の大規模な暴風雨のような大衆的な階級闘争は基本的に終わった」という考え方と矛盾していました。だから、大きな波紋を広げました。そして、対立を招きました。

また、小林文男は、紅衛兵とそれを肯定する人々に対して疑義を呈します。問題としてあげているのは、紅衛兵と労働者の対立が国家全体に悪影響をもたらす点、また紅衛兵の活動がかつての農民の蜂起と重ねられて語られるが時代状況が全く違う点などです。ただ毛沢東が紅衛兵、つまり若者たちから圧倒的な支持を得ていることも指摘します。

孫文「支那の保全・分割について合わせ論ず」

「支那の保全・分割について合わせ論ず」は、孫文が、中国の現状を分析した文章。

『原典中国近代思想史 第三冊』に収録。

孫文は、西洋列強や日本の中国分割論と保全論をそれぞれまとめます。その上で、国勢と民情の点から分析して、国勢について論ずれば保全できる道理はなく、民情について論ずれば分割できる道理はない、とします。そして、満州人の築いた清朝や、それに従属する漢民族の大臣は、人心を集めることができず、逆に洪秀全のように漢民族の者が立ち上がれば、それ続く者は続出する、と指摘します。そして、中国の国土は長年にわたって統一の形があり、分割の勢いはない、という考えを記して、義和団を参考にすればわかるように、漢民族は家族や故郷を守るためには死も恐れず立ち上がるだろうと結論付けます。

近藤邦康翻訳。

『江蘇』第六期(1903年11月)に掲載。署名は逸仙。

清朝を倒して、漢民族の国家を作り上げる、という考え方をうかがうことができます。また、孫文の思想のルーツの一つとして、太平天国がある、ということも理解できます。