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中国文学映画関連 備忘録

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余华《黄昏里的男孩》

《黄昏里的男孩》は余华の短編小説。

孫福という果物を売っている老人が、果物を盗んだ少年を懲らしめる物語。孫福は少年に対して執拗に罰を与えます。まず盗んだものを吐き出すことを要求して、右手の中指を折ります。さらに蹴り飛ばして、縛り付けて「私はコソ泥です」と人が通るたびに言うように仕向けます。孫福は少年が同じ過ちを繰り替えないためにしているのだ、少年のためだ、と言います。少年は縄を解かれた後、黄昏の中で歩いて去ります。その後、孫福の過去が描かれます。息子は沼に落ちて亡くなり、妻は理髪師とともに去りました。

奇妙な小説。1995/12/22

少年の物語というより、孫福という人物の物語といったほうが適切です。

描かれるのは暴力、罪、罰の関係に関して。

非常に考えさせられます。
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赵毅衡《非语义化的凯旋——细读余华》

《非语义化的凯旋——细读余华》は、趙毅衡のよる余華論。

もともと《当代作家评论》1991年第2期に掲載。

・余華には、習作期間というものがあまり見られない

・分類するとすれば、先鋒文学第二の波は、文革の影響で下放されていない者が多い

・先鋒文学は《收获》《钟山》《上海文学》などに支えられたため、上海・浙江周辺出身のものが多い。

・余華は魯迅の後継者とみなしえる。ただ、魯迅は新旧の対立、余華は虚実の対立。

・余華の初期作品は、往々にして成年になることに直面した人格転換の苦しみに注目。
 具体的な作品への言及
⇒《四月三日事件》 一人の男子が、周囲から迫害されていると感じる。幻覚は現実によって証明されて、現実もまた幻覚によって証明される。そして現実が幻覚の中の一環となり、その連関が互いに相互の因果を証明する。

⇒《世事如烟》自我体験が意義体系の対訳である原因で、幻覚と現実の変換が個人の精神の範囲を超えており、その動力は中国のサブカルチャーの中の根深くて根源的な野蛮な風俗、中国人の潜在意識の中の最も暗黒な部分(採陰補陽、身代わり、冥婚で邪気を払う、子女の売買など)に存在している

⇒《难逃劫数》皆が死への恐怖におびえている。そして、虚栄と性の嫉妬で突き動かされている。

⇒《一九八六年》現実を扼殺している。最も狂気的なのは中国歴史全体の残酷さ。


・余華の小説では、繰り返し・運命の不可避が描かれる

・死の描写の細密化は死に対して実体性を与える。《难逃劫数》の少女の自殺、《古典爱情》における食肉となった少女の扱い、《一九八六年》の中学教師の壮絶な自殺、《现实一种》の死体解体。

・余華はさまざまなものを転覆しようとしている。《往事与刑罚》の時間に対する処刑は、歴史というもっとも権威のある最高のテクストの転覆。《世事如烟》は孝行の転覆、《一九八六年》は歴史の転覆、《现实一种》は家族倫理の転覆、《河边的错误》は探偵小説の転覆、《古典爱情》は才子佳人小説の転覆、《鲜血梅花》は武侠小説の転覆。

・余華は、中国文化の意味構造に対して最も敏感な作家であり、それに対して最も強く転覆を試みている作家である。この意味において、余華を五四作家に最終的には回帰させて超越させる。

王彬彬《余华的疯言疯语》

《余华的疯言疯语》は、王彬彬による余華論。狂気というテーマから分析。

もともと《当代作家评论》1989年第4期に掲載。

余華自身が常人とは違う目線を持つ「狂人」では?という指摘がなされています。

・狂人とは
⇒余華の作品には、狂人が幾たびも登場するその狂人は通常の人が用いる知識、ロジック、思考方法から抜け出して、完全に自分の感覚に頼って外界に対して判断を下している。

・具体的な作品への言及
⇒《一九八六年》の中に登場する、文化大革命の記憶によって苦しめられている中学教師。しかし、その内心の文化大革命は、その中学教師にとっては真実だ。すべてが災難だった十年前と、平穏な今の対比。今によって覆い隠されているから見落とすことになるが十年前の文革は事実であり、それが中学教師によって浮き彫りにされる。
⇒《四月三日事件》の中に登場する、外界すべてが敵にみえる18歳の少年。《狂人日記》を容易に想像させる。《狂人日記》は人を食う中国社会を描いたとされてたが、最近では人類社会そのものが人を害する世界だということを示唆しているという見方もあり、その意味では《四月三日事件》も共通する。

・純然たる傍観者
⇒余華は純然たる傍観者の立場から作品を描いている。冷酷な静けさであり、無声映画を思わせる。そして、「・・・この時」といった表現が頻出することにより築き上げられた虚構の世界の真実性が突きつけられる。

・余華は世界を非理性的、デカダンスなものととらえている
・具体的な作品への言及
⇒《十八岁出门远行》 18歳の少年が人のものを守ろうとして努力するが、助勢した人は高みの見物をしていて、少年は痛い目にあい、最後には自分のものまで取られる。
⇒《西北风呼啸的中午》余華は、瀕死の知らない人間から、彼の友達だといわれ続ける。そして、そのよくらない人が死ぬと悲しいふりをして、葬式に参列して、最後には、その人に替わってその人の母親の息子となる
⇒《死亡叙述》タクシー運転手は子供を轢き殺してしまい、一度目は逃走する。結果として罰は受けないが、良心の呵責に苦しむ。しかし、二度目は正直に申し出る。そして、子供の親によって殺される。
⇒《河边的错误》狂人はどれだけ人を殺しても法の制裁を受けない。だから警察隊長・馬哲は人民のために狂人を射殺する。しかし、その際、狂人の振りをして法から逃れることとなる。

・余華作品のなかで、人間性の悪の証明が大きな特徴であることは事実。
⇒想像の中にしかないような残虐な行為が描かれる。《难逃劫数》《现实一种》《古典爱情》
⇒余華は親族の情を否定する。《现实一种》 の兄弟の相克、《世事如烟》の中の娘の遺体を売る父、《四月三日事件》の中の父母に害されることを恐れる息子、《古典爱情》の娘を食肉として売る父、《一九八六年》の中の元夫の帰郷を恐れる妻。

・余華とかかわる作家に関して 残雪

⇒常識に対する反抗が余華の特徴
⇒余華自身が常人とは違う目線を持つものではないか

・余華は、常識によって多い隠されて、時々たまたまあらわれでるような人類生存の本当の姿を言葉でとらえて固定している


樊星《人性恶的证明——余华小说论(1984—1988)》

《人性恶的证明——余华小说论(1984—1988)》は、樊星による余華論。とくに前期の作品に焦点を当てた内容になっています。

もともと《当代作家评论》1989年02期に掲載。

・余華がデビュー当初発表した《星星》は純粋な童心を描いた心温まる物語。川端康成の影響下にあったと著者自身が認めている通り、その細やかさが特徴的。その後、作風が変化した。たとえば、《现实一种》などは、暴力と鮮血に彩られた作品。なぜ、その変化は起こったのか?
⇒時代の流れと関係がある。同時代の作家たち(王安憶、史鉄生、莫言、賈平凹、張承志)も同じ道をたどった。
⇒感傷を含んだ抒情から、冷淡さへ

・とくに著者が評価するのは《一九六八年》。悪を鋭敏に捉えているから。ドストエフスキーの『罪と罰』を想起させる作品。

・余華には二つの系統の作品がある。写実の手法を用いた自然主義的なものと、現代主義の手法を用いたもの。前者が《西北风呼啸的中午》《现实一种》《河边的错误》、後者が《四月三日事件》《死亡叙述》《世事如烟》《难逃劫数》
・余華のテーマは「宿命」と「狂人」

・余華が描く悲劇の裏側には、「人生とはどうしてこのようなのか」という点に対する考えがある

・ドストエフスキーの人間とはそもそも悪である、という点は、中国の作家にとっても大いに参考になる。とくに、二重人格、カラマーゾフ気質など。とくに中国人の生存危機感において大きな意味を持つ。「これも啓蒙だ」という形で。

・中国の作家は描写のレベルにとどまっている。一方、ドストエフスキーは人間性分析になっている。

一方、ドストエフスキーは思想小説となってる。それはまさに学ぶべき点だ

吴义勤《告别“虚伪的形式”》

《告别“虚伪的形式”》は呉義勤による余華論。とくに《许三观卖血记》に注目。

もともと《文艺争鸣》2000年第1期に掲載。

《许三观卖血记》を優れた作品とみなして、その成果を列挙したものとなっています。

・《许三观卖血记》は「人の復活」と「民間の発見」を果たした。
⇒80年代、余華は人の悪の本質の提示は、人の抽象化と記号化を代価としていた。これが文学の「人学」の伝統に離反させて文学作品に人の血肉と生気を失わせた。しかし、「否定の否定」の方法によって、余華はそれを改めた。人と生活を蘇らせた。

⇒許三観は成長しない児童だ。その素朴さと単純さによって苦難と対抗して自己を守っている
⇒生命を売ることが生命に対する救済と尊重になっている。売血が人生の儀式と人性の儀式に昇華されている。
⇒民間の発見と再構成。80年代は民間が極端化されて、ヤクザの世界などがクローズアップされた。しかし、《许三观卖血记》は、日常の民間空間を再構築した。「歴史」を押さえて、人と生活を復活させた。民間の暖かさ、民間の人性、民間の倫理構造。
⇒叙述にも変化が見られる。80年代余華は貴族化された叙述をしていた叙述者が絶対的な権力を握っていた。しかし、90年代になって叙述者が背後に退いた。

・《许三观卖血记》では、対話と叙述が進化した
⇒先鋒文学は叙述にこだわった。ただ、先進的な叙述はかえって想像力の欠乏と芸術能力の不足を隠すこともあった。それに対して、《许三观卖血记》は、高度に単純化されている。作者は一切の装飾性の、技術性の形式要素をはぶいている。
⇒叙述者が消滅した。登場人物が極めて大きな自主性と自足性を獲得した
⇒対話に重きが置かれる。会話によって物語が進行する。外部行動の描写と高度に簡約に。静止の描写はほとんどない。「しゃべる」と「行動する」が基本的な行動方法。悲しみの表現も「歩く」と「泣く」になった。
⇒対話の多重的な機能が発揮されている。会話によって時間が操作されている。会話の多用は危険をはらむが《许三观卖血记》はそれに成功している。
⇒繰り返しとリズムも特徴的。いきいきとしている。《许三观卖血记》の繰り返しが音楽をつくりだしている。

・可能性と啓示に関して
⇒《许三观卖血记》は90年代中国文学のひとつの重要なテキストだ。
⇒ある意味《许三观卖血记》は余華を批判してきた人たちに対する挑戦である。余華は自らの力で自らを証明した。
⇒ただ、それは80年代の完全否定ではない。「否定の否定」は、80年代の成果の上に積み上げられたものである。
⇒中国文学局面の本当の変貌は、むしろ芸術的、言語的、技術的な大規模な血の入れ替えからは離れられない