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中国文学映画関連 備忘録

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4/25『中国二〇世紀文学を学ぶ人のために 』(世界思想社、2003年)

『中国二〇世紀文学を学ぶ人のために 』(世界思想社、2003年)をぱらぱらめくっている最中。小説、詩、映画、京劇などが多角的に扱われていて面白いです。

この前《霸王别姬》を見たので、「二〇世紀の京劇と梅蘭芳[松浦恆雄]」と「上海の「京劇」[藤野真子]」が印象に残りました。京劇の言葉は北京以外の地域の方言が基盤となっていた、という基礎的な部分から文革期にどのように政治から圧力をかけられたのか、という簡単な歴史など分かって改めていろいろ考えました。
それからちょうど、今日ゼミで満州時代の文学を研究している方の発表を聞いていて、満州の文学にかんしても気になりました。あとになって満州文学は再評価されたそうですが、文学に対する評価とはそもそもどういうものなのか、など。

目次
●まえがき[宇野木洋]
パート1
 コンパクト・中国二〇世紀文学史[宇野木洋]
パート2
 ●二〇世紀前半の理論と制度
 制度としての近現代文学[絹川浩敏]
 ●二〇世紀後半の理論と制度
 「統治」の枠組から文化「解読」へ向けた模索の営為へ ─ 対抗軸としての政治・欧米理論・ コマーシャリズム[宇野木洋]
 ●二〇世紀前半の詩
 現代詩の生成 ─ 詩律の変遷とモダニズム[是永 駿]
 ●二〇世紀後半の詩
 詩の復権 ─ 中国現代詩の沃野[是永 駿]
 ●二〇世紀前半の小説
 “救国”と“通俗”の相克[阪口直樹]
 ●二〇世紀後半の小説
 「書く」ことの意味 ─ 二〇世紀後半の中国小説[今泉秀人]
 ●二〇世紀の演劇
 二〇世紀の京劇と梅蘭芳[松浦恆雄]
パート3
 古典から二〇世紀へ ─ 詩文[筧 文生]
 上海の「京劇」[藤野真子]
 日本占領下の文学状況 ─ 「満洲国」の文学研究[岡田英樹]
 日本占領下の文学状況 ─ 上海[梁 有紀]
 「中国二〇世紀文学」にとって「台湾の文学」とは[星名宏修]
 エミグラント文学[是永 駿]
 VCDによる中国映画分析の新たな可能性[好並 晶]
●あとがき[松浦恆雄] ●読書案内
●年表[鈴木康予] ●索引 ●執筆者紹介
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6/29汪暉「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」

汪暉「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」(『世界史のなかの中国』収録)は、中国の研究者が実際に沖縄に赴いた上で、沖縄が抱えている歴史的な問題、およびにそれと対峙する社会運動に関して分析した文章。

汪暉は、多くの地域では政治闘争が「脱政治化」に陥って意味を喪失しているが、沖縄の政治闘争は政治性を際立たせている、と評価します。そして、沖縄の問題はまさに、世界資本主義の発展全体、帝国主義の発展全体が、集中的にこの地域に展開したものであり、ポスト冷戦構造の覇権構造とひとつながりになっているとみます。だから、沖縄の問題を考えることは、20世紀の帝国主義史、冷戦時期とポスト冷戦時期の歴史的構造を考察することと直結して意味がある、というのが著者の立場です。

インタビューをまとめたもののためか、若干読みづらいです。しかし、内容自体は非常に興味深いです。

沖縄の問題をどのように語るのか、ということは難しい問題です。仮に沖縄に負担を押し付けながら「本土」の人間が高みから何かを語っても白々しいと非難されたら返す言葉もありません。中学校の修学旅行の時、沖縄に行き、平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館、渡嘉敷集団自決の碑、アブチラガマなどを見て回りましたが滞在は一週間程度です。沖縄のことに関してわかったとはとても言えません。ただ、汪暉「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」を読みながらいろいろ改めて考えました。

沖縄と本土の間には大きな認識のギャップがあります。居住区に隣接している基地を撤去するべきと沖縄県民が主張しています。しかし、自民党の国会議員が先日「沖縄メディアは左翼勢力に乗っ取られている」と述べていたことが発覚して非難を浴びたように、一部の日本人は、沖縄の反基地闘争を沖縄の民意と捉えず、反社会、反日的勢力の扇動であるかのように装います。そして、沖縄に基地があることは軍事的に必要であり、しかたない、というような論理を持ち出します。基地必要論には当事者意識が薄いといえます。だから、沖縄から日本は沖縄を日本とみなしていない、二等国民とみなして差別しているという声が発せられます。

第二次世界大戦の時、日本は本土決戦を先延ばしにするため、沖縄を捨て石としました。結果として、多数の民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦が行われました。また、戦後、沖縄はアメリカ統治に組み込まれて、多数の米国基地が残されて日本復帰後もその問題は解決していません。沖縄の抱える問題に対して日本が責任を持たない理由はないといえます。

ただ、日本はアメリカとの関係に依存しており、沖縄の問題に関しては主権があるとは言い難い状況です。端的にいえばアメリカの覇権をどのように考えるのかということを沖縄における問題が提起しているともいえます。だから解決は容易ではありません。ただ、より良い着地点を探し出そうとする誠意や努力はあるべきですが、まず日本政府からそれらが垣間見えるとはとても言えないことは最も問題なのではないかと感じます。

コルヴィッツの木版画を軸にして、佐久間美術館と魯迅を結びつける汪暉の視野は非常に面白いです。

6/18 『「規範」からの離脱 中国同時代作家たちの探索』

『「規範」からの離脱 中国同時代作家たちの探索』は、日本の中国文学研究者が、中国の現代文化の潮流を様々な角度からまとめたもの。現代の小説、演劇、詩などが論じられています。国際交流基金「異文化理解講座」の書籍化。

現代中国の演劇、詩に関しては全く詳しくないので、佐藤普美子「第四章 現代漢語詩歌の模索 一九九〇年代詩歌の諸相」と飯塚容「第五章 小劇場、前衛劇の試み 林兆華、孟京輝から李六乙、田沁〔キョク〕」はとくに興味深く読みました。ただ、様々な解釈を生み出す詩というものを論じることは容易ではない、と感じました。詩を分類して歴史を総括する、というような方法をとるとしても難しそう。

中国の現代文学のなかで定番といえば莫言、高行健など、フェミニズムの観点からみた時興味深い対象は鉄凝、衛慧、棉棉、木子美、周縁から中国を問い直す人たちとしてはザシダワ、アーライがいる、というふうに、一般的な評価を知る上でよくまとまっていて分かりやすいです。

「第十章 わたしたちはどこへ行くのか? グローバリゼーション下の都市文化」を読みながら、なぜ日本の現代文化は中国に伝播しているのに、中国の現代文化は日本にあまり伝播しないのか考えてみたい、と感じました。それから、なんとなく中国のネット小説と日本のケータイ小説を比較してみたら面白いかも知れないと感じました。

尾崎文昭「第一章 「改革と開放」政策のもたらしたもの 一九九〇年代の文化とメディアの状況」
関根謙「第二章 「集団幻想」からの脱却 中国一九六〇年世代の挑戦」
白水紀子「第三章 活躍する女性作家 鉄凝『大浴女』にみる娘の成長物語」
佐藤普美子「第四章 現代漢語詩歌の模索 一九九〇年代詩歌の諸相」
飯塚容「第五章 小劇場、前衛劇の試み 林兆華、孟京輝から李六乙、田沁〔キョク〕」
藤井省三「第六章 魔術的リアリズムが描く中国農村 鄭義、莫言と大江健三郎」
飯塚容「第七章 「人称」の実験と「多声部」の試み ノーベル賞作家、高行健の小説と戯曲」
山口守「第八章 夜の対話からマイナー文学まで 史鉄生、ザシダワ、アーライ」
桑島道夫「第九章 「新人類」作家の登場 「身体で書く」女性作家、衛慧、棉棉、そして木子美」
千野拓政「第十章 わたしたちはどこへ行くのか? グローバリゼーション下の都市文化」

6/14 『中国現代文学珠玉選』いろいろ

いま『中国現代文学珠玉選』収録の日本語に翻訳された魯迅「孔乙己」、葉聖陶「隔たり」、郁達夫「蔦蘿行」、郭沫若「岐路」などを読んでいる最中。

とくに、葉聖陶「隔たり」(1922)は面白かったです。

主人公は、久しぶりに町に帰り、親戚友人に会う時、同じ会話が何十度も繰り返されることを予期します。そして、どうせ繰り返すしかないならば、「お互いにこれから言おうとする話を蓄音機のレコード盤に収め、お互いに送りあい、繰り返しを省いたら良いのではないか」と考えつきます。
結局、主人公は、町で様々な人に会うのに、最後まで他者との間に隔たりを覚えます。そして、全員が本心で語り合うことのない現状を自覚しながらそれに疲れて何もできません。

様々な読みが可能ですが、素直に読むとすれば疎外の問題が扱われていると言えそうです。描かれているのは、内面の感情と外部に向けた感情発露の乖離、交流の不可能性、現実に対する無力感、内面の疎外など。その背景にあるのは、自己の内面という前提やメタな視点から現実を捉える思考です。中国語の原文でも読んでみたい、と感じました。

6/4 汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-」

6/4
汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-」(『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』収録)は、中国において1960年代が正面から語られないことを問題にした文章。

汪暉は、現在の世界が好ましくない「脱政治化」に向かっていると指摘します。そして、20世紀の政治は政党と国家を中心に展開されてきたが、資本主義の強化によってその二つが危機に瀕しており、政治領域の縮小と固定化が進んでいる、と示します。その現象は著者によれば、旧西側諸国でも旧東側諸国でも進行しており、国家の公共的選択に対する資本の利益追求の影響や政党の代表性の欠如から見てとることができるとします。そして、最終的には政治領域の再規定が必要であり、 「再政治化」を目指して政治空間や政治生活の活性化をはかるべきと結論付けます。
著者は文化大革命には当初、政治の活発化を目指す性質があったと評価しているようです。文化大革命を前近代の単なる復活とみるのではなく、むしろ近代の産物とみている、といえます。そして、文革の全面否定によって隠蔽される問題がある、と指摘します。その点が非常に興味深いです。文化大革命の全面否定によって、平等を目指す運動が途絶していることに対して危惧を抱いているようにみえます。自由と平等を対置した場合、汪暉は平等の再評価が必要だとみなしている側にあります。

西洋の哲学の概念に詳しくないので理解に苦しむ点もありましたが、全体としては整理された議論であり、わかりやすいと感じました。ただ、六四天安門事件をどう捉えるのか、というもう一つの問題と組み合わせて「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治 をめぐって-」を読むと非常に考えさせられます。汪暉は、現在、様々な運動が「脱政治化」の潮流によって無意味なものに転化されていることを指摘します。そして、現在、中国の状況下において、自由化や市場化などを含むグローバル化の推進を安易に要求することは、世界的な「脱政治化」の潮流と無意識の共犯関係を取り結ぶことになりかねない、と示唆しているようです。

日本との関わりから考えると、中国において再び階級化が進行しているが改善されていない、という指摘が興味深いです。日本では貧困が2000年代大きな社会問題として取り上げられました。具体的にはワーキングプアや年越し派遣村に関する報道によって、貧困が可視化されました。しかし、現在その傾向は収束傾向にあります。また、教育学の方面では苅谷剛彦などによって階級の固定化が進んでいるのではないかという指摘が提出されていますが一般化はしていません。貧困が認知されない点では日本も深刻な問題を抱えているのでは、と指摘することも可能です。

柄谷行人が、2011年03月06日、東日本大震災が来る直前に『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』を肯定的に評価する書評を発表しています。最近の柄谷行人による中国に関する思索や評価、それから汪暉の影響に関しても考えてみると興味深いです。