汪暉「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」(『世界史のなかの中国』収録)は、中国の研究者が実際に沖縄に赴いた上で、沖縄が抱えている歴史的な問題、およびにそれと対峙する社会運動に関して分析した文章。
汪暉は、多くの地域では政治闘争が「脱政治化」に陥って意味を喪失しているが、沖縄の政治闘争は政治性を際立たせている、と評価します。そして、沖縄の問題はまさに、世界資本主義の発展全体、帝国主義の発展全体が、集中的にこの地域に展開したものであり、ポスト冷戦構造の覇権構造とひとつながりになっているとみます。だから、沖縄の問題を考えることは、20世紀の帝国主義史、冷戦時期とポスト冷戦時期の歴史的構造を考察することと直結して意味がある、というのが著者の立場です。
インタビューをまとめたもののためか、若干読みづらいです。しかし、内容自体は非常に興味深いです。
沖縄の問題をどのように語るのか、ということは難しい問題です。仮に沖縄に負担を押し付けながら「本土」の人間が高みから何かを語っても白々しいと非難されたら返す言葉もありません。中学校の修学旅行の時、沖縄に行き、平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館、渡嘉敷集団自決の碑、アブチラガマなどを見て回りましたが滞在は一週間程度です。沖縄のことに関してわかったとはとても言えません。ただ、汪暉「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」を読みながらいろいろ改めて考えました。
沖縄と本土の間には大きな認識のギャップがあります。居住区に隣接している基地を撤去するべきと沖縄県民が主張しています。しかし、自民党の国会議員が先日「沖縄メディアは左翼勢力に乗っ取られている」と述べていたことが発覚して非難を浴びたように、一部の日本人は、沖縄の反基地闘争を沖縄の民意と捉えず、反社会、反日的勢力の扇動であるかのように装います。そして、沖縄に基地があることは軍事的に必要であり、しかたない、というような論理を持ち出します。基地必要論には当事者意識が薄いといえます。だから、沖縄から日本は沖縄を日本とみなしていない、二等国民とみなして差別しているという声が発せられます。
第二次世界大戦の時、日本は本土決戦を先延ばしにするため、沖縄を捨て石としました。結果として、多数の民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦が行われました。また、戦後、沖縄はアメリカ統治に組み込まれて、多数の米国基地が残されて日本復帰後もその問題は解決していません。沖縄の抱える問題に対して日本が責任を持たない理由はないといえます。
ただ、日本はアメリカとの関係に依存しており、沖縄の問題に関しては主権があるとは言い難い状況です。端的にいえばアメリカの覇権をどのように考えるのかということを沖縄における問題が提起しているともいえます。だから解決は容易ではありません。ただ、より良い着地点を探し出そうとする誠意や努力はあるべきですが、まず日本政府からそれらが垣間見えるとはとても言えないことは最も問題なのではないかと感じます。
コルヴィッツの木版画を軸にして、佐久間美術館と魯迅を結びつける汪暉の視野は非常に面白いです。