小林文男『中国現代史の周辺』収録作2 中国関連の本(日) 2015年12月08日 0 『中国現代史の周辺』は、小林文男による中国現代史に対する考察をまとめたもの。1976年出版。アジア経済研究所。 「知られざる抗日運動 日本統治下における台湾民衆の志向」 台湾の反帝国主義運動をまとめた文章。台湾にも共産党があり、日本共産党、中国共産党と協力しながら日本による支配に抵抗しました。事実、日台の連帯を目指した党書記長、渡辺政之輔は台湾の基隆で死亡しました。また、当初は台湾民主国設立を目指して、のちには辛亥革命に呼応して、光復(異民族排除と祖国の回復)を目指す武力闘争が起こりました。とくに、孫文の革命同盟会と呼応して行動した羅福星などが顕著な例です。さらに、武力闘争が鎮圧化されたあとも、文化協会などを中心として、同化への拒否がはかられました。 「矢内原忠雄の中国観 その「反戦」「反侵略」の論理」 自由主義的立場にたつ植民政策学者として、日本政府による中国侵略に反対して東大を追われた矢内原忠雄に関してまとめた文章。矢内原忠雄は1930年代以降、満州などの中国問題に強い関心を示していました。そして、中国人には国家心がないと指摘する人々を批判して中国統一の動きを注視して、日本は対等にそれと向き合うべきだと主張しました。反戦の論理をつづった『国家の理想』『神の国』などは1937年8月発売されると即座に発禁となり、12月矢内原は東大を去りました。 「一つの時代の終焉 蒋介石の死とその「三民主義」」 1975年4月に亡くなった蒋介石の思想を、小林文男がまとめた文章。蒋介石は孫文の後継者として登場して、国民党を率いました。思想の面でも孫文の「三民主義」を引き継ぎました。しかし、1927年、4・12クーデターで共産党員を弾圧、虐殺して、国共内戦を引き起こしました。小林文男は、蒋介石などの「三民主義」はもともとブルジョア的民族改良主義としての限界があったため事件は起きたと指摘します。ただ、その後蒋介石は執拗に共産党を滅ぼそうとしました 小林文男は、その原因を、蒋介石が、共産党に「三民主義」を横取りされたと感じていたからではないか、と推測します。実際、共産党は農村で民生主義を体現するかのようなシステムをつくりあげました。一方、蒋介石は、民生主義に基づいた具体的な農村政策の導入に失敗しました。だから、蒋介石は焦ったのでは、というのです。ただ、民生主義は国家資本主義の方向では努力して一定の成果をあげました。さらに、第二次国共内戦で敗れたあと、蒋介石は台湾では民生主義に基づいた施策で成功しました。ただ、アメリカの支援があり、元大日本帝国の放棄した土地を分配することができた、など、恵まれた環境にあったから、ともいえますが。 「「アジア的生産様式」とは何か フェレンツ・テーケイ博士の所説」 小林文男による、ハンガリーのマルクス主義研究者フェレンツ・テーケイ博士へのインタビューをまとめたもの。どのように当時の状況下で人々がものごと(たとえば、中国とソ連の関係や文化大革命など)を考えていたのか、わかります。 「ソ連の中国研究 あわせて若い世代のアジア観の問題」 小林文男がソ連を訪問した時の感覚をまとめたもの。当時、中国とソ連の関係は冷え込んでいました。だから、小林文男は中国とソ連は遠い、と形容します。とくに、その差はアジアとヨーロッパの差なのでは、と書いています。そして、ソ連側の研究者は中国側を厳しく批判していて、その上文化大革命の中国に関する情報がないので、歴史研究に偏っていた、と小林文男は指摘します。また、ソ連の若者がドイツにあこがれて、中国に全く興味を持っていない様子だと記しています。 「鄧小平の失脚 結びにかえて」 1976年の天安門事件のため、鄧小平が失脚した頃だったのでそれに関して感想が綴られています。 今からすると、「ソ連の中国研究 あわせて若い世代のアジア観の問題」の内容などは隔世の感です。 PR