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中国文学映画関連 備忘録

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現代中国文学翻訳研究会/訳『錯、錯、錯!』

『錯、錯、錯!』には、現代中国文学翻訳研究会によって翻訳された80年代中国女性作家の短編小説が収録されています。

主に愛に悩む人たちが描かれています。

諶容 『錯、錯、錯!』1984年
ある夫婦の物語。妻・恵蓮を失った僕の視点から叙述されています。僕は編集者、恵蓮は演劇の役者です。二人はパーティで出会い、情熱的に愛し合い、結婚して最高のハネムーンをすごします。しかし、生活か始まると、二人の間に亀裂が入ります。恵蓮は仕事で評価されず、夜になると泣き叫ぶます。僕は彼女を慰めようとしますが、いつしか無視するようになります。その上、僕が恵蓮のために家事全般をしているのに、恵蓮はまだ愛が足りないといいます。そして、娘の燕燕が生まれると燕燕の存在が二人の諍いの種となります。最終的に恵蓮は子猫ミーを拾ってきてミーに愛を注ぎます。僕は恵蓮が亡くなった後、すべてを後悔します。

陳愉慶『壁』
傍観者の立場から、妻子を持つ男性を愛した女性を描いている物語。私は下放されたガラス工場で、静瑤という人物と出会います。二人は親友になりました。静瑤は北京に帰った後、羅鐘瑞、欧莉夫婦とともに共同生活を始めます。羅鐘瑞は編集者、欧莉は若く美しい看護師でした。欧莉は毎日のように遊び歩き、家事に気を配らないので、羅鐘瑞と毎日けんかしていました。そして、いつの間にか羅鐘瑞と静瑤は惹かれあい、密かに愛し合うようになります。そして、羅鐘瑞は欧莉に対して離婚を申し出ます。しかし、欧莉は激しく拒否して、子供を連れて羅鐘瑞の母親の元に身を寄せます。一方、欧莉から離婚反対のために弁護してほしい、と頼まれた静瑤は他人の家庭を壊してしまったことを痛感して、羅鐘瑞のもとを去ります。私は羅鐘瑞に対して嫌悪感を抱きながらも、静瑤を励まします。

池莉『故郷の月』(『月儿好』)1982年
私と、幼馴染・月好の交流とすれ違いを描いた物語。私が実家を売るため、十数年ぶりに故郷に帰ってきた場面から物語は始まります。私は故郷を出た後、復旦大学を卒業して、上海女性と結婚しました。その後、小さな田舎で十年以上中学教師を勤めた後、ようやく上海に戻りました。妻とは金をめぐって毎日のように、言い争っています。一方、月好は、両親が私のために将来の結婚相手としてひきとってきた孤児でした。しかし、私とは結婚することもなく、今では夫を失い、双子を育てています。私は月好が不憫な生活をしていると思い込み、哀れんでいました。しかし、二人が再開すると月好は教養を身につけて、全国的にも注目される幼稚園の園長になっていました。私は月好に対して心惹かれて、月好の家を訪ねると、非常に律儀な双子が出迎えました。私は、月好に合わせる顔がない、そして月好から母親の形見であるイヤリングを受け取るわけにはいかない、と思い、故郷の美しさに感心しながら静かに去っていきます。

諶容『決して面白くない自伝』
諶容の創作に関わる生涯がまとめられています。『万年青』などの作品がさまざまな圧力のため出版を脅かされた経緯、農村での生活が創作に生きていることなど、まとめられています。文化大革命の影響をひしひしと感じます。

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現代中国文学翻訳研究会/訳『終着駅』

『終着駅』には、現代中国文学翻訳研究会によって翻訳された80年代中国女性作家の短編小説が収録されています。

文化大革命が終わった後、その記憶と向き合う人たちの姿が描き出されています。


王安憶『終着駅』(《本次列车终点》)1981年
陳信が10年ぶりに上海に帰ってきた場面から物語が始まります。陳信は、兄の代わりに下放を受けて、北方で10年間生活してきました。その間、常に上海に帰りたいと願っていました。遂に上海に帰ってきましたが、上海は人があふれる都市であり、陳信の心は落ち着きません。そして、家の相続を巡って、兄家族と微妙な関係が生まれます。そして、仕事も受験勉強もしないでラジオをずっと聴いている弟にも悩まされます。しかし、最終的に陳信は悩みを突き破り、前向きに生きていこうと思い直します。


鉄凝『果樹園への小路』(《小路伸向果树园》)1980年
19歳の女性詩人である私は、果樹園を気に入っていて、よく散策しています。その後、影のように私についてきて、私と目を合わせる五十過ぎの男性があらわれます。ある日、男性は私に対して「一緒に散歩しませんか」と申し出ますが、私はかっとなって断り、逃げます。その後、私は、その男性が党委員会の宣伝部長だったと知ります。

宣伝部長は、文化大革命の頃、無実の罪で妻を失い、さらに自己批判を強いられました。その上、娘は宣伝部長の意見を無視して、文革遂行のために武力闘争に参加したクラスメートと結婚して、戦闘で死亡しました。しかし、宣伝部長は毅然として涙を流すことはありませんでした・・・

宣伝部長は、私と娘がよく似ていたため、果樹園で私に声をかけたのでした。私は、宣伝部長がもう去ると知り、慌てて追いかけました。そして、動き出した汽車に乗る宣伝部長に向かって「あなたと一緒に散歩したいんです」と叫びました。その声は届いたかどうかわかりませんが、宣伝部長は微笑みを浮かべながら涙をこぼしました。


『愛する権利』(《爱的权利》)1980年
ある姉弟の物語。物語の舞台はハルビン。姉・舒貝、弟・舒莫には、歌手だった母親と大学で音楽を教えていた父親がいました。しかし、母親は文革の時期に自己批判を強いられて自殺、父親も批判を受けて、愛していたバイオリンを四階から投げ捨てると「もう二度と音楽にかかわらないように。舒貝は労働者と結婚するように・そして、普通の人間になって決して政治とかかわってはならない」という遺言を残します。

その後、舒貝は看護士となり、舒莫の入院の際に、李欣という哲学を好む青年と出会います。舒貝と李欣は惹かれあいます。しかし、文革が終わりに近付いた頃、父親の遺言に従って音楽や政治を恐れる舒貝と、音楽を学ぼうとする舒莫の間に対立が生まれます。そして、李欣は舒貝に告白しますが、舒貝は李欣に対して、自分かあるいは政治・哲学の片方だけを選ぶように迫り、李欣は政治・哲学を選びます。そして、二人は結ばれることはありませんでした。


劉俊民『月清く』(《月色清明》)1980年
私とある老人の心の交流の物語。私(銭)は、文化大革命の時、妻と新聞社の職を失います。文革が終わり、新聞社に戻ってきますが、過去の記憶のため強情になっています。そして、昔からの友人で職場仲間の趙慶江に一緒に中秋節を祝おうといわれても断ります。私は仕事に没入して、哀しみや悩みを忘れようとしますが失敗します。

その後、親身になって私の手助けをさまざまする老人から弁当を貰い、その美味しさに感謝します。そして、弁当箱を届けるため、老人の家を訪ねます。月明かりの中、老人は川劇を上手に歌っている最中でした。その後、私は、老人とどこかで会ったような気がするので、帰る途中で記憶を振り返ります。老人は胡という人物でした。私は下放された川南で胡の妻と出会ったことがありました。胡の妻は家の取り壊しに反対して私のもとに哀願にきましたが私が相手にいないので首をつって自殺したのでした。私は道を引き返して胡に再び会い、「どうして私を避けて、本当の名前を言ってくれなかったんです。どうして私に親切にしてくれるんです。こんなにしてくれるより、私をののしり、恨んでくれたほうが・・・」と言います。老人は、「私があなたを恨んでも、あなたは誰を恨めばいいのか・・・あなたは学問のあるインテリだから、よくお考えになれるでしょう」と言います。私はその後、新しい生活に踏み出そうと決意して、趙慶江の申し出にこたえます。


余未人『星のきらめき』(《星光闪烁》)1981年
厳教授と息子・厳小熊の確執と和解の物語。厳教授は、H製品試作のため、長年にわたって努力しています。文革時期に自分のことを告発した息子・厳小熊を嫌い、息子と認めていません。厳教授の妻・竹雲は、厳教授と厳小熊を和解させようとしますが、その度に失敗して悩んでいます。いま、厳小熊は、厳教授の親友であり研究仲間でもある方愚のもとで、学んでいます。

ある日、妻は、方愚、厳小熊たちを呼んで歓迎会をしようと厳教授に提案します。今回は厳教授も承諾します。厳教授が妻の贈物と思って喜んで受け取った新しい眼鏡、小さな懐中電灯、回春薬の入った袋は息子の贈物でした。さらに、息子は父親の愛するプリンを持ってきます。厳教授は方愚からH製品試作のための図面を見せられてその内容を絶賛しますが、それは息子が中心になって設計したものでした。厳教授は息子に声を掛けました・・・


どの作品も文革が人の心に与えた影響を問題にしています。

野沢豊『孫文と中国革命』

『孫文と中国革命』は、辛亥革命の研究者・野沢豊が、孫文の人生と思想の変遷を分かりやすくまとめたもの。

1966年出版。当時の野沢豊自身の問題意識などに触れた部分もあります。しかし、基本的には、客観的な立場から、孫文という人間を観察した内容となっています。孫文を英雄として絶対視するのではなく、その思想の揺れ動きなどにも気を配ろうとしていて、非常に参考になります。

「第一章 日本維新は中国革命の第一歩」では、孫文と日本との関わりをまとめています。改良派(黄遵憲、梁啓超、張謇など)と革命派(孫文など)の明治維新に対する考え方の発展と差異を総括。また、孫文と日本の自由民権派(頭山満、宮崎滔天)との交流が土地国有化の考えを生み出したのでは、と推測。1906年8月13日の留日学生による孫文歓迎会での孫文の講演を解説。中華民国の成立時期とその後の孫文の動向とそれに対する日本の動き、孫文と片山潜の比較。孫文の対日批判への移行、日本から離れてソ連を受け入れる姿勢に変化、一方、大アジア主義の演説も行ったことなどもまとめています。

「第二章 人民を皇帝にする」では、孫文が、共和思想を皇帝思想に対置したことを解説。太平天国の伝統、開放的な広州、広州やハワイでの英語による教育などが影響と分析。

「第三章 平民革命により民国政府をたてる」では三民主義などを解説。度重なる武装蜂起の失敗と理論的な進展などをまとめています。また辛亥革命に対する評価も総括。

「第四章 連ソ・容共・農工扶助」では、護法運動の挫折から、国境合作への移り変わり、そして、国民政府建設に向けた動きがまとめられています。

「第五章 革命はまだ成功しない」では、孫文の死後、孫文の思想がどのように利用されたのか、あるいは継承されたのかをまとめています。

岩佐昌暲・編『中国現代文学と九州 異国・青春・戦争』2

『中国現代文学と九州 異国・青春・戦争』は、さまざまな中国文学研究者が、近現代の中国文学作家と九州との関わりに関してまとめたもの。非常に興味深いです。

「第4章 夏衍と北九州」
夏衍は中国の著名な劇作家。左翼作家同盟設立において中心的な役割を果たして、多くの脚本を発表。後には中日友好協会会長もつとめました。

夏衍は明治専門学校(九州工業大学)に在籍。九州と関わりを持ちました。明治専門学校は、もともと安川敬一郎が設立。安川敬一郎の孫文など中国との不快つながりのため中国人学生を受け入れていたそう。

九州の炭鉱業界の利益が、日本における自由民権運動や中国の民権派活動の資金源というはなしなど興味深かったです。

「第5章 冗海を見ていた墓-魯迅と鎌田誠一」
魯迅とある日本人の友情に関して。魯迅は、1934年5月に結核で亡くなった日本人・鎌田誠一のためにわざわざ墓碑を書きました。鎌田誠一は、上海内山書店の店員。彼は、1932年上海事変の時、日中間の戦闘が激化する中、魯迅を守るため、租界や内山書店への避難と潜伏を援助しました。また、二人は芸術関連の話題でも意気投合していたようです。

「第6章 魯迅と長崎」
魯迅の長崎に対する思いに関して。魯迅は療養のため、長崎に来たいと願いながら一度も来ることができませんでした。なぜ長崎なのかという点に関する研究。著者は、長崎におけるキリスト教徒に対する弾圧が魯迅にとって興味深かったのでは、と指摘。

一方、その妻、許広平は戦後原水爆の大会に参加するため長崎に来ているそうです。

「第7章 「満州国」詩人矢原礼三郎と『九州芸術』」
名前の知られていない詩人・矢原礼三郎に関して。矢原礼三郎は九州の文壇と満州の文壇にかかわりを持ち、詩を執筆。とくに目を引くのは、日本に対して批判的な立場の満州国詩人との交友がある点。また、日本を批判しているとみられるがある点。

「第8章 内なる自己を照らす「故郷」-坂口れい子の文学における台湾と九州」
戦後、台湾の原住民をテーマにした小説を書いて芥川賞候補にもなった坂口れい子に関して。戦前台湾で執筆した小説と、戦後日本で執筆した小説をつなげて考える必要があるとの指摘。

「第9章 魯迅と郭沫若-その九州大学との関係」
 魯迅と郭沫若を九州大学に招こうという計画があった、というはなし。



岩佐昌暲・編『中国現代文学と九州 異国・青春・戦争』

『中国現代文学と九州 異国・青春・戦争』は、さまざまな中国文学研究者が、近現代の中国文学作家と九州との関わりに関してまとめたもの。非常に興味深いです。

「序章 中国現代文学と九州」
内容全体の概観。

「第1章 文学者郭沫若と九州の縁」
郭沫若と九州の関係に関して。詩や散文を参考にしながら、郭沫若が九州の自然に魅せられていた、ということを明らかにしていきます。また、郭沫若の文学にとって九州の風土が大きな意味を持っていた、ということも示します。

「第2章 陶晶孫と福岡」
陶晶孫と福岡の関係に関して。陶晶孫は福岡を好んでいませんでした。東京の生活を経た後、福岡に来たため、田舎とも都会ともいえない福岡に対して好感を持ち得なかったのかも知れません。その結果なのか、当時の作品は、後の作品とは違って、暗くナイーブな側面が色濃いそうです。

福岡を愛した郭沫若と、福岡を愛さなかった陶晶孫の対比は印象的。

「第3章 張資平と九州・熊本―旧制五校の青春」
旧制五校で学生生活を送った張資平に関して。本人の小説などを参考にしながら、当時の生活を分析しています。「ヨルダン川の水」という小説の内容によれば、当時、熊本に心を通わす人がいたようです。