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中国文学映画関連 備忘録

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李陀《汪曾祺与现代汉语写作──兼谈毛文体》

李陀《汪曾祺与现代汉语写作──兼谈毛文体》は中国が建国以来、毛文体によって支配されてきたという観点から、それを打ち破った汪曾祺を評価するもの。

非常に示唆に富んでいます。

大衆語に関する議論。毛沢東の理論の先取りとしての瞿秋白。

《复仇》に基づく文体の分析も面白いです。汪曾祺が一時、翻訳体を選び、そしてそれを捨てたという指摘。西洋の小説に対する理解、古典に対する理解、それらが汪曾祺を支えているという観点。

言葉そのものに着目する、という立場は参考になります。


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余華《一九八六年》

《一九八六年》は余華の中編小説。

文革期、古代の刑罰に惹かれていた中学の歴史の教員が妻子を残して、紅衛兵に連れ去られます。そして、自白を迫られた翌日に、姿を消します。時を経て教員は狂人となって帰ってきます。妻はおびえますが、他の人々は全く意に介しません。そして、狂人は自らの身体に古代の刑罰を行います。。。

狂人の視点と、一般人の視点の切り替えがあります。

文革というテーマとどう向き合うか、という点で、非常に興味深いです。


李陀《1985》

李陀《1985》は李陀による1985年の回顧。

阿城《棋王》の結末。文革と改革の中で小さなグルーブが生まれて闊達な議論が交わされたことに関して。危機感からの北岛《回答》。毛沢東による「工農兵文芸」からの脱却としての汪曾祺《受戒》、そしてそれに続く尋根文学。意識の流れを模倣して批判された王蒙の《春之声》《海的梦》。

そして文学の世界意外にも及んださまざまな変革。詩歌における《深圳青年报》など、芸術における各種展覧、《黄土地》をはじめとする映画における第五世代の変革。

「現代化」に対する反省。五四以降の中国にとって課題として出現してきた「現代化」に対する再考。西方式的“现代化”为什么必定是一股不可抗拒的潮流?という問いは極めて興味深いです。

そして、尋根文学が提起されたともいわれる杭州会議に関して。

示唆に富む評論。

李陀からよれば「傷痕文学」「改革文学」もまた「工農兵文芸」の延長でしかなく、本当の転換点は1985だという指摘は興味深いです。

賈平凹「太白山記(抄)」、遅子建「霧の月」、劉恒「こころ」(『ミステリー・イン・チャイナ 同時代の中国文学』)

賈平凹「太白山記(抄)」、遅子建「霧の月」、劉恒「こころ」は『ミステリー・イン・チャイナ 同時代の中国文学』収録。

中国の現代小説。

賈平凹、塩旗伸一郎訳「太白山記(抄)」
民話のような奇妙な物語が数々綴られています。霊界で素晴らしい水晶だと偽り、プラスチックのめがねを売る男のエピソード、頭を落としてしまって必死に探す男のエピソードなど面白いと感じました。

賈平凹の小説を読んでみたいと思いました。

遅子建、下出宣子訳「霧の月」
宝墜はずっと三匹の牛と暮らしています。母親が義父とセックスしている場面を見て、義父に叩かれた後知能障害となり、家に住みつかなくなったからです。義父は罪悪感をもち宝墜に優しく接しますが、宝墜は相手にせず、妹・雪児は宝墜を嫌っています。義父が亡くなりますが、宝墜はあまり気にせず、牛の子供が生まれたことを重視します。その後、母が宝墜を気遣っている様を見せて一家は一応和解します。

劉恒、徳間佳信訳「こころ」
文化大革命の時、農村で労働に従事してから北京に戻った若者、林立冬の物語。彼は今ではごみ収集の仕事をして、卑屈になっています。ある時、幼馴染・汪暁葉と再会しますが、汪暁葉が本を読む知的な女性となっていて尻込みします。小さい頃、出っ歯なためばかにされた林立冬は、片足が不自由な汪暁葉と仲良くなり、彼女を背負って通学しましたが、汪暁葉の父の死後、いじめのため汪暁葉を放り出します。そして汪暁葉は去りました。林立冬は汪暁葉に惹かれて、彼女に見合う人間となるため努力し始めます。

文革とその後の人間性の回復、といった形でまとめることが出来そうな小説。

個人的にはどれも面白かったです。

格非「時間を渡る鳥たち」

「時間を渡る鳥たち」は格非の中編小説。『時間を渡る鳥たち』収録、関根謙翻訳。

原題は「褐色鸟群」とのこと。

主人公は格非という作家。「水辺」で蟄居する彼のもとに棋という女性があらわれたので、クリ色の靴を履き、後に妻となる女性とのエピソードを語る、というもの。最終的に、棋と再会しますが、棋は私のことを知りません。

格非らしい小説。語り、という方法が用いられています。時空が歪んでいるようであり、知っていたはずの人が知らない人になります。