張愛玲,楊絳『浪漫都市物語―上海・香港’40S』収録作品 中国関連の本(日) 2015年12月10日 0 『浪漫都市物語―上海・香港’40S』は、張愛玲,楊絳の小説やエッセイなどを収録したもの。 張愛玲の代表作などが収録されています。 『封鎖』張愛玲作 清水賢一郎訳 物語の舞台は、日本軍によって占領されている戦時中の上海。街が封鎖されて静まった後、電車はただ停止します。そして、呂宗楨は同じ電車に乗っていた義理の甥に話しかけることを恐れて、呉翠遠を口説き始めます。もともと全く偶発的かつ無意味な内容のはずでしたが、翠遠の胸中には動悸と同情が沸き起こります。そして、二人の間には奇妙な連帯感が生まれます。しかし、封鎖が終わると、呂宗楨は去ります。そして、呉翠遠は「封鎖機関中のすべては、発生しなかったのと同じ」という呂宗楨の考えを察知します。 『戦場の恋-香港にて』 張愛玲作 上田志津子訳 孤島期の上海と、開戦前後の香港を舞台としたロマンス。白流麗は、困窮しながらプライドだけは捨てない一族の中で生活しています。一度離婚して家に帰ってきたため、非常に差別的な扱いを受けています。その後、白流麗は、妹のお見合いの時、偶然、華僑の青年実業家・範柳原と出会い、ダンスします。そして、香港に赴き、範柳原と過ごすことになります。結婚は「長期間の売春」だという範柳原と、結婚を求める白流麗の間に駆け引きが始まります。一度、白流麗は白家の館に帰ります。しかし、範柳原に呼び戻されて、範柳原の情婦となります。範柳原は商売のためイギリスに赴こうとしますが、開戦したため船が出ず、戦火で範柳原と白流麗は「真心」で結ばれた夫婦となります。 『香港-焼け跡の街』張愛玲作 清水賢一郎訳 戦時下の香港で過ごした日々を綴った文章。他者に対する鋭い視線が非常に印象に残ります。そして、「私たちの身勝手さと虚しさ、恥知らずで愚かしい私たち」という表現など達観した考え方もよく描かれています。 『囁き』張愛玲作 清水賢一郎訳 張愛玲自身の経歴をまとめた文章。1921年上海生まれ。幼いころから、父のもとで唐詩・古典を学びました。母親は家族を置いて、3歳の時、叔母とともにフランスに去りました。父は妾を家に入れて、遊び暮らしました。しかし、妾によって一家がかき回されたため、妾は追い出されました。四年後母親が帰国するも、アヘン中毒の父親と離婚して、再びフランスに行きました。張愛玲は聖マリア女学校に入学して寄宿生活に入りました。その後、張愛玲は母親との関係などか原因となって、父親と継母に激しく折檻されて半年間監禁されますが、翌年に脱出して母親を頼り、生活し始めました。 『やっぱり上海人』張愛玲作 清水賢一郎訳 張愛玲が上海に対する愛をつづった文章。張愛玲が上海人をどのように見ているかということがまとめられているので、興味深いです。「上海人の第一印象は色白と肥満」。「第二の印象は「通」」、具体的には文章のあやなど。 上海人とは伝統的中国人にモダンライフの高圧力をすけて磨き上げたものだ、という表現、上海人は悪だという表現などは面白いです。 『ロマネスク』楊絳作 桜庭ゆみ子訳 楊絳は銭鍾書の妻。『ロマネスク』はロマンス。悪人と協力している女性をすくいだそうとしたが結局うまくいかない少年の物語。 『叔母の思い出』楊絳作 桜庭ゆみ子訳 叔母・楊蔭榆の思い出を綴った文章。楊蔭榆は北京女子師範大学の学長だったとき、政府の意向に沿って保守的な政策をとったため、女学生や女学生を支持する魯迅たちから激しく批判されたことで有名な人物です。 日本東京女子高等師範学校(現在御茶の水女子大学)で学び、アメリカのコロンビア大学で修士号をとりました。そして、教育者として北京女子師範大学の学長になりました。しかし、学生との争いの結果辞任。蘇州に帰り、近隣の学校で教鞭をとりました。抗日戦争の間には、蘇州に住み、日本軍が乱暴強姦などを行っていることに怒り、何度も日本軍に抗議に行きました。そして、射殺されて河に放り込まれました。 楊蔭榆は、離婚した後は、女性としての幸福やおしゃれには全く興味を示さなかったと楊絳は綴っています。偏屈、という言葉で形容しています。 PR