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中国文学映画関連 備忘録

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松井博光『薄明の文学―中国のリアリズム作家・茅盾』

『薄明の文学―中国のリアリズム作家・茅盾』は、松井博光による茅盾研究。

茅盾が日本滞在時何をしていたのか、どういう心境であったのか、といった点を茅盾自身のエッセイや資料から実証的に明らかにしていく部分などは非常に面白いと感じました。1979年出版なので、出版後にさらにさまざまな研究は進んだかもしれませんが、基本的な整理としては非常に優れています。

また、文学研究会の成り立ちに関してまとめた部分は流派研究として非常に面白いです。


第1章 霧と虹と紅葉―京都の茅盾
1 京都の霧/2 茅盾の来日と景雲里/3 虹と紅葉/4 陰陽鏡と嵐山/5 《牯嶺から東京へ》と《『倪煥之』を読む》/6 長篇『虹』/7 京都の隣人

第2章 文学研究会と大革命
1 商務印書館と交渉した若者/2 『新社会』グループ/3 葉紹鈞、孫伏園、周作人ほか/4 商務印書館の茅盾/5 『小説月報』の刷新/6 創造社と茅盾/7 〈五・三十〉前後/8 矛盾の爆発―広州と武漢/9 牯嶺から上海へ/10 『蝕』と《厳霜下の夢》
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竹内好「現代支那文学精神について」

「現代支那文学精神について」は竹内好が1943年7月『国際文化』に発表した文章。『竹内好セレクションII アジアへの/からのまなざし』収録。

竹内好らしい文章なので、意味をとりづらいですが、基本的には中国に対する考えが表明されています。

竹内好は、古典を通して中国を理解しようとする立場、あるいは過去との連続性を通して中国を理解する立場を批判します。そして、近代を実現する中国に目を向けるべきとします。

近代化した世界がどう中国を取り込んだか、ではなく、中国がどう近代化を果たしたか、というふうに中国を主語として、近代化を考えていき、五四新文化運動をその契機とみなすべきと主張しています。

まとめの部分は暗示的です。

「現在の支那は、文化的にはまことに荒涼たるものがある。表面に現われた動きは殆ど何一つ把えることが出来ぬ。たまに動きに似たものが浮遊しても、それは逆に沈黙を深めるだけに過ぎぬ。しかし、その沈黙の底には、爆発するものが潜んでいる気配がある。それを思うと、私たちは戦慄を禁じ得ぬ。五四以後の文学精神は、表面の活動を阻碍されていても沈黙の底に脈々と流れていそうな気がする。その精神の本拠を衝くのでなければ、表面に泛んだ泡沫的現象など把えてみとたころで、何もならぬと思われる。現在の支那民衆の第一の念願は、私の信ずるところでは、彼らの近代を貫くことである。つまり国民的統一を完成することである。云い換えれば彼らの現代文学を描くことである。仮に私たちの大東亜文化の理想がこの方向に背馳するものであるとするならば、私たちは彼らの協力を求め得ぬだろう。逆に、現代支那が全き体系として包括される場所へは、彼らは欣んで従うだろう。ただ、そのような場所は、近代日本と近代支那が同列に否定されることによって全く生かされるような場所でなければならぬが、その実現のためには、異常な決意と努力が私たちに要求されるだろう。」

竹内好「方法としてのアジア」

「方法としてのアジア」は竹内好が1960年1月25日国際基督教大学アジア文研究委員会主催の「思想史方法論講座」で、「対象としてのアジアと方法としてのアジア」と題して行った講演をまとめたもの。『竹内好セレクションII アジアへの/からのまなざし』収録。


竹内好自身の思想がどのように育まれてきたのかを簡単に説明しています。既存の漢学に対する反感。中国旅行を通して、中国を理解したいという思いを持ったという発端。中国文学研究会をたちあげたものの、第二次世界大戦が始まって兵士として中国に赴いた経緯。戦後は、第二次世界大戦に対する反省から始まったものの、コミュニズムに対しては全面的には承認できないという態度。

そして、後進国における近代化にはさまざまなタイプがあり、日本と中国はそれぞれ異なる道をたどったのではないか、という推論にいたります。そして、日本の近代化は迅速だったが、皮相を模倣したにすぎず、一方五四新文化運動に始まる中国の近代化は民族という軸があるとみなします。そして、三本立てで西洋、日本、中国を考えていきたいと竹内はまとめます。

参照するのは、デューイやラッセルによる日本と中国への分析です。そのほか、日本における限られたタゴールの受容と中国における広範なタゴールの受容を比較します。

また、東洋という一点で日本、中国、インドをまとめることは必ずしも妥当かどうかは分からないと梅棹にも言及します。

そして、日本は中国に負けた、という意識が日本人にはないが、毛沢東の『持久戦論』を読めば分かるように中国は信念に基づいて日本に勝ったのであり、それをしっかり反省することが大切だともいいます。

そして、普遍的な価値と言うものを認めたいという立場から、「西洋的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自信をこらちから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の巻返しによって普遍性をつくり出す」といったことをしていくべきと主張します。

劉徳有『時は流れて 上―日中関係秘史五十年』

劉徳有『時は流れて 上―日中関係秘史五十年』は、日中間の通訳にあたった劉徳有がみずからの経歴をまとめたもの。『時光之旅――我経歴的中日関係』の日本語版。

最初の部分では、占領下の大連における子供時代、日本人学校での日々、日本人学校での中国語教師、訪中団の通訳、『人民中国』の立ち上げスタッフとしての経歴が綴られています。

とくに占領下の大連がどのようであったのかという部分など考えさせられました。

非常に興味深いです。

溝口雄三、伊東貴之、村田雄二郎『中国という視座』3

溝口雄三、伊東貴之、村田雄二郎『中国という視座』は、三人の学者が儒教という観点から中国を考察したもの。

「2 中国近世思想史における同一性と差異性―「主体」「自由」「欲望」とその統御」は朱子学を内部から読み解いていこうとするもの。執筆者は溝口雄三。

内容においては「1 中国近世の思想世界」と重なる部分があります。

「中国近世思想史におけるフーコー的主題の変奏」では西洋哲学とも対応させながら、中国の朱子学を検討していきます。西洋では、教会と懺悔が、個人や内面を生み出しましたが、中国においてはどうであるのかと検討していきます。非常に興味深いです。

「朱子学は何故「成功」したか―「静態学的」朱子学理解を超えて」
修身の学問として受容されたという指摘。

「儒教の民衆化とその逆説―旧中国の最終段階」
陽明学の特別視を諌めるような内容となっています。

「中国近世思想における「複数」性の挫折」
全く異質な欲望を抱く個人というものを中国の儒教は結局想定しえなかったのではないか、という指摘。同質化が求められるディストピアにならざるを得ないのではないかという疑念。そして、それは、現代における共産党の清廉さをもとめる政策にもつながったのではないかという指摘など。