6/4 汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-」 中国関連の本(日) 2015年07月04日 0 6/4 汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-」(『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』収録)は、中国において1960年代が正面から語られないことを問題にした文章。 汪暉は、現在の世界が好ましくない「脱政治化」に向かっていると指摘します。そして、20世紀の政治は政党と国家を中心に展開されてきたが、資本主義の強化によってその二つが危機に瀕しており、政治領域の縮小と固定化が進んでいる、と示します。その現象は著者によれば、旧西側諸国でも旧東側諸国でも進行しており、国家の公共的選択に対する資本の利益追求の影響や政党の代表性の欠如から見てとることができるとします。そして、最終的には政治領域の再規定が必要であり、 「再政治化」を目指して政治空間や政治生活の活性化をはかるべきと結論付けます。 著者は文化大革命には当初、政治の活発化を目指す性質があったと評価しているようです。文化大革命を前近代の単なる復活とみるのではなく、むしろ近代の産物とみている、といえます。そして、文革の全面否定によって隠蔽される問題がある、と指摘します。その点が非常に興味深いです。文化大革命の全面否定によって、平等を目指す運動が途絶していることに対して危惧を抱いているようにみえます。自由と平等を対置した場合、汪暉は平等の再評価が必要だとみなしている側にあります。 西洋の哲学の概念に詳しくないので理解に苦しむ点もありましたが、全体としては整理された議論であり、わかりやすいと感じました。ただ、六四天安門事件をどう捉えるのか、というもう一つの問題と組み合わせて「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治 をめぐって-」を読むと非常に考えさせられます。汪暉は、現在、様々な運動が「脱政治化」の潮流によって無意味なものに転化されていることを指摘します。そして、現在、中国の状況下において、自由化や市場化などを含むグローバル化の推進を安易に要求することは、世界的な「脱政治化」の潮流と無意識の共犯関係を取り結ぶことになりかねない、と示唆しているようです。 日本との関わりから考えると、中国において再び階級化が進行しているが改善されていない、という指摘が興味深いです。日本では貧困が2000年代大きな社会問題として取り上げられました。具体的にはワーキングプアや年越し派遣村に関する報道によって、貧困が可視化されました。しかし、現在その傾向は収束傾向にあります。また、教育学の方面では苅谷剛彦などによって階級の固定化が進んでいるのではないかという指摘が提出されていますが一般化はしていません。貧困が認知されない点では日本も深刻な問題を抱えているのでは、と指摘することも可能です。 柄谷行人が、2011年03月06日、東日本大震災が来る直前に『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』を肯定的に評価する書評を発表しています。最近の柄谷行人による中国に関する思索や評価、それから汪暉の影響に関しても考えてみると興味深いです。 PR