吴义勤《告别“虚伪的形式”》 余華関連の評論 2015年11月12日 0 《告别“虚伪的形式”》は呉義勤による余華論。とくに《许三观卖血记》に注目。 もともと《文艺争鸣》2000年第1期に掲載。 《许三观卖血记》を優れた作品とみなして、その成果を列挙したものとなっています。 ・《许三观卖血记》は「人の復活」と「民間の発見」を果たした。 ⇒80年代、余華は人の悪の本質の提示は、人の抽象化と記号化を代価としていた。これが文学の「人学」の伝統に離反させて文学作品に人の血肉と生気を失わせた。しかし、「否定の否定」の方法によって、余華はそれを改めた。人と生活を蘇らせた。 ⇒許三観は成長しない児童だ。その素朴さと単純さによって苦難と対抗して自己を守っている ⇒生命を売ることが生命に対する救済と尊重になっている。売血が人生の儀式と人性の儀式に昇華されている。 ⇒民間の発見と再構成。80年代は民間が極端化されて、ヤクザの世界などがクローズアップされた。しかし、《许三观卖血记》は、日常の民間空間を再構築した。「歴史」を押さえて、人と生活を復活させた。民間の暖かさ、民間の人性、民間の倫理構造。 ⇒叙述にも変化が見られる。80年代余華は貴族化された叙述をしていた叙述者が絶対的な権力を握っていた。しかし、90年代になって叙述者が背後に退いた。 ・《许三观卖血记》では、対話と叙述が進化した ⇒先鋒文学は叙述にこだわった。ただ、先進的な叙述はかえって想像力の欠乏と芸術能力の不足を隠すこともあった。それに対して、《许三观卖血记》は、高度に単純化されている。作者は一切の装飾性の、技術性の形式要素をはぶいている。 ⇒叙述者が消滅した。登場人物が極めて大きな自主性と自足性を獲得した ⇒対話に重きが置かれる。会話によって物語が進行する。外部行動の描写と高度に簡約に。静止の描写はほとんどない。「しゃべる」と「行動する」が基本的な行動方法。悲しみの表現も「歩く」と「泣く」になった。 ⇒対話の多重的な機能が発揮されている。会話によって時間が操作されている。会話の多用は危険をはらむが《许三观卖血记》はそれに成功している。 ⇒繰り返しとリズムも特徴的。いきいきとしている。《许三观卖血记》の繰り返しが音楽をつくりだしている。 ・可能性と啓示に関して ⇒《许三观卖血记》は90年代中国文学のひとつの重要なテキストだ。 ⇒ある意味《许三观卖血记》は余華を批判してきた人たちに対する挑戦である。余華は自らの力で自らを証明した。 ⇒ただ、それは80年代の完全否定ではない。「否定の否定」は、80年代の成果の上に積み上げられたものである。 ⇒中国文学局面の本当の変貌は、むしろ芸術的、言語的、技術的な大規模な血の入れ替えからは離れられない PR