《余华的疯言疯语》は、王彬彬による余華論。狂気というテーマから分析。
もともと《当代作家评论》1989年第4期に掲載。
余華自身が常人とは違う目線を持つ「狂人」では?という指摘がなされています。
・狂人とは
⇒余華の作品には、狂人が幾たびも登場するその狂人は通常の人が用いる知識、ロジック、思考方法から抜け出して、完全に自分の感覚に頼って外界に対して判断を下している。
・具体的な作品への言及
⇒《一九八六年》の中に登場する、文化大革命の記憶によって苦しめられている中学教師。しかし、その内心の文化大革命は、その中学教師にとっては真実だ。すべてが災難だった十年前と、平穏な今の対比。今によって覆い隠されているから見落とすことになるが十年前の文革は事実であり、それが中学教師によって浮き彫りにされる。
⇒《四月三日事件》の中に登場する、外界すべてが敵にみえる18歳の少年。《狂人日記》を容易に想像させる。《狂人日記》は人を食う中国社会を描いたとされてたが、最近では人類社会そのものが人を害する世界だということを示唆しているという見方もあり、その意味では《四月三日事件》も共通する。
・純然たる傍観者
⇒余華は純然たる傍観者の立場から作品を描いている。冷酷な静けさであり、無声映画を思わせる。そして、「・・・この時」といった表現が頻出することにより築き上げられた虚構の世界の真実性が突きつけられる。
・余華は世界を非理性的、デカダンスなものととらえている
・具体的な作品への言及
⇒《十八岁出门远行》 18歳の少年が人のものを守ろうとして努力するが、助勢した人は高みの見物をしていて、少年は痛い目にあい、最後には自分のものまで取られる。
⇒《西北风呼啸的中午》余華は、瀕死の知らない人間から、彼の友達だといわれ続ける。そして、そのよくらない人が死ぬと悲しいふりをして、葬式に参列して、最後には、その人に替わってその人の母親の息子となる
⇒《死亡叙述》タクシー運転手は子供を轢き殺してしまい、一度目は逃走する。結果として罰は受けないが、良心の呵責に苦しむ。しかし、二度目は正直に申し出る。そして、子供の親によって殺される。
⇒《河边的错误》狂人はどれだけ人を殺しても法の制裁を受けない。だから警察隊長・馬哲は人民のために狂人を射殺する。しかし、その際、狂人の振りをして法から逃れることとなる。
・余華作品のなかで、人間性の悪の証明が大きな特徴であることは事実。
⇒想像の中にしかないような残虐な行為が描かれる。《难逃劫数》《现实一种》《古典爱情》
⇒余華は親族の情を否定する。《现实一种》 の兄弟の相克、《世事如烟》の中の娘の遺体を売る父、《四月三日事件》の中の父母に害されることを恐れる息子、《古典爱情》の娘を食肉として売る父、《一九八六年》の中の元夫の帰郷を恐れる妻。
・余華とかかわる作家に関して 残雪
⇒常識に対する反抗が余華の特徴
⇒余華自身が常人とは違う目線を持つものではないか
・余華は、常識によって多い隠されて、時々たまたまあらわれでるような人類生存の本当の姿を言葉でとらえて固定している