《主体的泯灭与重生—余华论》は郑国庆による余華論。
もともと《福建论坛》2000年第6期に収録。
余華の作品を発表された順番に沿って、読解していく論文。
・初期の三篇はみな同じような特徴を持っている
(《十八岁出门远行》 《西北风呼啸的中午》 《四月三日事件》)
⇒十八歳・成人式を迎えた少年が、ファルス・父、言語、権力の中に分け入って行かざるを得ない展開となっている
⇒「私」が事件に巻き込まれていく。「私」が主体、その感情が問題となる。
・《一九八六年》は文革の創傷を扱っている。
⇒余華の叙述言語は、他の文革に関する文学と比べて、際立っている。なぜならば、他の文革に関する文学は終わった後の立場から「訴える」「悔やむ」「悼む」ものだが、余華は異なるからだ。
・余華の場合、狂人はもう一人の有名な名のある人物としてではなく、「現実主義」によって血肉や性格を持つ主体として描かれている。「訴える」「悔やむ」能力がなく、ただ自覚しないで心理上、行為上で恐怖の歴史を再現して、現実を歴史として誤る。
・《河边的错误》もまた狂人の物語だが、この狂人は抽象的で生理上の狂人。一人の人称がなく、性格がなく、心理がない「物」。
⇒無情な創作のあらわれ
・《偶然事件》では本当に力を持つものが姿をあらわす、つまり言語。
・《在细雨中呼喊》 苦難と苦悶の物語
⇒著者自身の立場からすれば、それは作風の変化ではなく、原点への回帰「生命の痛感」
⇒「私」に立ち返る
・民間形態への到達 《活着》《许三观卖血记》
⇒抽象的な類にかわって生き生きとした個人をもってくる
⇒単純化した比喩からも、叙述が、農民の立場からになっていると分かる
知識分子の形式から民間の形式へ
・しかし、《活着》《许三观卖血记》の主題は異なる。前者は忍耐、後者は堅忍。
・「民間」にも欠点はある。それに関しても踏まえながら進んでいくべき。