《鲜血梅花—余华小说中的暴力叙述》は倪伟による余華創作の中の暴力にまつわる叙述に関する論文。
もともと《当代作家评论》2000年第4期に掲載。示唆に富んだ読み応えのある内容。
・余華の三島由紀夫に対する指摘「創作と生活は、一人の作家にとっては、二重であるべきだ」「彼の作品の中には死と鮮血が満ち溢れている」を引用。そして、それは余華にもあてはまると分析。
・余華は病院で育ったことが自分の創作に影響した、と記している
⇒著者は鮮血と死に直面した時も恐れないことは暴力を反復して叙述する動機にはならない、と指摘。ただ記憶が影響している部分には同意して、余華の創作の背後には、「文化大革命」の影響があると指摘する
⇒文化大革命の際の壁新聞が文学への入り口
・余華にとっての現実とは何か
⇒著者は「余華にとっては、本当の現実は一つ一つの具体的な事件の累積ではなく、入り組んで散乱した事件の背後に隠された関係構造である。このような関係構造は特定の時代の社会構造と対応しているだけではなく、同時に人類の基本精神構造あるいは生存(実存)状況の理屈でもある。」
⇒つまり、物事の裏側にある構造、道理への注目
◇注目する作品
・《现实一种》
⇒物語は、子ども・皮皮の無意識化の過ち(赤子の死)から始まる。子どもも、暴力の快感を知っている。
⇒夫の妻に対する日常的暴力が示すのは、死へと飛翔する時の暴力のきらめきは、平常のぐっとこらえる暴力の変形だということ。
⇒男性は暴力によって尊厳を保つ。暴力は、獣性の残留物ではない。
⇒物語のラストの人体の解体は、「暴力とは何か」という問いを突き付ける。肉体に対する直接的な暴力より、科学・制度によって正当化された暴力のほうがより深刻。
・魯迅は、中国の国民性批判をおこなったが、余華は人の本性に原因があるとみる
・《河边的错误》
⇒人々は狂人の暴力に無関心。狂人を人として見ていないから。
⇒狂人の暴力は、狂人を養っていた老婆の被虐性によってあおられた。
加虐と被虐の関係。被虐も時として消極的な存在の承認。
⇒人々は、狂人に対する暴力の発動には無関心である。暴力とはなにか考えさせられる。
⇒馬哲は、犯罪を繰り返す狂人を射殺するが全く罪の意識はない。民のための正当な行いと思っている。しかし、馬哲の狂人を装って裁きを免れる自体が、馬哲の正当性を揺るがす。正常と非正常の境界線はどこにあるのか。
⇒作品が示しているのは暴力と権力と権力言語の共犯関係
・子どもと大人の関係は複雑だ
⇒一般的に大人によって子どもは迫害される。しかし、子どもも決して無垢ではない
子どもも大人の権力構造に影響されて、そのうちに取り込まれつつある。
・余華作品が暴力を描くのは暴力に対する批判のためだけではないだろう。余華はまるで暴力に魅了されているかのようだ。
⇒その原因は?
⇒手掛かりになるのは《朋友》という作品。余華自身の少年時代のことと思われる内容。
《朋友》
・力に対する憧れ。文革の時代が背景にはある
《一九八六》
文革に関しての作品。書き記すことの暴力。
・余華はドストエフスキー『罪と罰』に言及するが、それを髣髴とさせる。
⇒その暴力を行った人に対する描写のもっている説得力のため。暴力の残酷さの程度のためではない
・文化大革命がキーワード
⇒文化大革命の時期、暴力の合理性と合法性が人々の心に深くしみこんだ。外在する法律制度、内在する道徳の二重の拘束から逸脱した時代、人々は、整備された時代にいたら味わえないような解放感を得た。
・もっとも注視するべきは、表面的な暴力ではなく、精神の暴力、思想の暴力。そして、暴力を生み出す精神構造