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余華『ほんとうの中国の話をしよう』は、十のキーワードから中国の現状を分析したエッセイ。十のキーワードとは「人民」「領袖」「読書」「創作」「魯迅」「格差」「革命」「草の根」「山寨」「忽悠」。余華自身の少年時代の記憶などもつづられていて、非常に興味深いです。六四天安門事件に触れており、中国大陸では出版されていないそうです。
全体を貫くキーワードは文化大革命といえそうです。余華は、現在のさまざまな矛盾を含んだ極端な市場経済化を考える時、常に文化大革命に立ち返ります。中国全体が極端な平等志向から極端な自由志向に振り子のように揺れ動いたことを理解するためには、文化大革命をまず考える必要があるという論理です。汪暉が、いま改めて中国における文化大革命の扱われ方を問題にしていることと呼応していて非常に興味深いです。(「中国における一九六〇年代の消失――脱政治化の政治をめぐって」)
「人民」は六四天安門事件に関して記述したものであり、当時「人民」という言葉を余華自身が本当に理解したと記してあります。余華が、当時の北京を次のように評価していることは非常に興味深いです。「1989年の北京は、アナーキストの天国だった。警察が急に姿を消し、大学生と市民が自発的に警察の任務を果たした。あのような北京が再現することは、おそらくないだろう。共通した目標と共通した願望が、警察のいない都市の秩序を整然と維持していた。」(p13)六四天安門事件に対する評価はさまざまあります。共産党政権の非道を指摘する声、学生がより賢明に撤退を選択していたら逆に民主化が進んでいただろうという声など、見方は全く一致しません。ただ、当時その場にいた人間のひとつの見方を余華の記述から知ることができます。
「領袖」では、余華の視点から毛沢東という人物がまとめられています。とくに以下の記述は面白いです。「中国の歴史を概観すると、貴族出身であろうと、草の根出身であろうと、皇帝になった者はみな、いかにも皇帝らしい顔つきをして、皇帝らしい言葉を使ってきた。毛沢東だけは例外で、領袖となったあとも、ときどき領袖らしからぬやり方をする。」(p24)そして、その具体例として長江を泳いだことをあげています。一般的に、共産党政権成立後の毛沢東は、「暴君」「皇帝」といった言葉によって形容されることが多いといえます。しかし、余華は、毛沢東が皇帝的ではない側面を一貫して持ちえたからこそ、非凡だったと指摘しています。非常に考えさせられます。毛沢東と いう人が何者だったのかということは改めて考える必要があると感じます。
「読書」は本のない時代に育った余華の読書経験をまとめたもの。毛沢東・魯迅の文章、およびに社会主義革命文学以外の文学が毒草として排除された状況は、今日本に住む人間からすると想像がつかないです。「創作」は、余華の創作の契機をまとめたもの。子供の頃「赤い筆の達人」として壁新聞などに、共産党を称揚する文章を掲載していたことから創作が始まったと記されていて、おもしろいです。文革が終わった後、幸運にも文芸雑誌に投稿した小説が掲載されて、小説家としてデビューします。しかし、血と暴力にかかわる小説を書き続けて、精神に異常をきたす寸前だったという述懐もあります。「魯迅」は、子供の頃魯迅を読まされ続けたため魯迅をまったく面白くないと 思っていたが、小説家になった後改めて魯迅を読み、初めてその価値に気付いたという経緯をまとめたもの。余華は、デビュー後、魯迅精神の継承者といわれて、一時不快に感じていた、という記述があり、興味深いです。
「格差」は中国の格差問題の深刻さを提起したもの。具体的なデータやエピソードに基づいて現在の格差を問題化しています。2006年、西南の貧困地区を訪れると子供達は一人もサッカーを知らなかった、というCCTVの司会者・崔永元のエピソードなどは印象に残ります。また、「片方が華やかな歓楽街、解放が壁の崩れた廃墟のようなもまのだ」(p146)という比喩などは印象に残ります。「極端に抑圧された時代が社会の激変にさらされると、必然として正反対の極端に放縦な時代がやってくる。ブランコと同じで、こちら側で高いところまで揺れれば、向こう側も必ず高いところまで行く」(p134)と余華は認識しています。そして、文革時期論じられていた空虚な思想的格差ではなく、実 際の社会的格差が問題になっていると指摘します。
「革命」は現在の経済発展こそが、大躍進式の革命運動であり、文革式の革命的暴力だと指摘したもの。具体的な経験に基づいて、文化大革命と現在の急激な経済発展の背後に同じ原理があるという指摘がなされています。「草の根」は、暴騰と暴落を繰り返す「草の根」の人々に関してつづったもの。売血によって億万長者になった人など、引用されるエピソードが非常に心に残ります。事実は小説よりも奇なり、という言葉を思い浮かべます。「山寨」は日本でも問題視されるような中国の模倣・コピー文化に関してまとめたもの。オバマが中国の携帯電話ブランドに、毛沢東が浙江省のカラオケ店のマスコットになり、そのうえ中国各地に天安門とホワイトハウスが出現したことなど かつづられています。
「忽悠」は、ホラをふくというような意味を持つ「忽悠」という流行語から世相を分析したもの。もともと趙本山が使ったことによって中国中に広まったそうです。奇妙なエピソードが数多く記されています。とくに「忽悠」の結果生み出されるだろう町を予想した文章は出色です。「我々は不条理文学を読んでいるかのようだ。「コカ・コーラ」という名前の都市には歩道がない。歩道は露天商に占拠されている。人々はカンフー映画のヒーローのように、猛スピードで走る車の間を機敏にすり抜けていく。街路、橋、広場、住宅地の名前は奇々怪々だ。「黒妹歯磨き粉街」「第六感コンドーム橋」「三鹿粉ミルク広場」「ABランジェリー団地」など。この都市の地名は、中国の各業種のさ まざまなブランドの寄せ集めである。食品、衣料、日用品、住居、乗物、性具、育児用品・・・何でも揃っている。街路の番地は混乱していて、順序がデタラメだ。こんな街路に足を踏み入れたら、まるで迷宮の中にいるようで、永遠に訪問先にたどり着けない。このとき、不条理文学は神秘主義の息吹を撒き散らす。カフカやボルヘスなら、このような都市に暮らすことを好むだろう。私も今後、そんな小説を書くかもしれない。書名は「忽悠」だ。」(p244)現代中国のデタラメな部分に関して、皮肉もこめながら、指摘しつくしています。
余華という人がどれほど、中国社会に関して、冷静に、なおかつ思いをこめながら考えているかが伝わってきます。また、メッセージが明確であり、収録されているエピソードが面白いので、普通に読んでいるだけでも非常に面白いです。
余華のこれまでの歩みに関しては、翻訳者でもある飯塚容さんの「解説」がきれいにまとめていて分かりやすいです。