《没有一条道路是重复的》は余華のエッセイ集。
「生活、阅读和写作」と名付けられた一節は、様々な話題にまつわるエッセイに関して収録。
「我的写作经历」
余華の創作の経歴に関して。1983年から創作を開始したが、初期の作品は訓練期間のものとみなして作品集などに収録していません。当時の作品は川端康成の強い影響下にあったと本人は認識しています。そして、1986年からカフカの叙述の自由さに影響されて、先鋒文学とみなされる一連の作品を発表。興味深いのは、中国では、余華に対する西洋文学の影響が取沙汰されるのに、西洋で翻訳されるとその点は論じられない点。「先鋒文学」という呼称自体が単なる口実であり、実質は、真実性の概念に対する再認識だったと余華は記します。九十年代になると、長編小説の執筆を開始します。余華は、それまで登場人物を作者が意図した記号と考えていたが、登場人物自身の発言を聞き取るようになったと記しています。
余華は次第に生き生きとした情感に興味を持つようになり、文学は実験ではなく、理解と探索だと考えるようになったと記しています。1998/7/11
「我为何写作」
イタリアで行われた文学論壇のための原稿。自分の文学の経歴を振り返る内容。歯科医から文学者へ。文学は人の心を柔らかくするということ。文学は人を特異にすること。本のない文革期から諸々の文学があふれる時代へ。外国文学から叙述を学んだが、自分は中国人の方式で成長して思索していること。ダンテとボルヘスに言及。ダンテの放たれた矢の表現、ボルヘスのもう一人の自分の声に対する表現。1997/11/13
「长篇小说的写作」
長編小説の創作に関して。蘇童が登場。短編小説は思い通りに操作できるが、長編小説は思い通りにはいきません。そして、少しでも悪いものが混じるとその続きまで悪くなるそうです。体力と精神力が試される、という感想。カフカ『審判』、ホーソーン『緋文字』、フォークナー『響きと怒り』の冒頭に言及。また、ヘミングウェイとマルケスは続きが分かった上で翌日に執筆を引き継ぐ、というはなし。1996/4/5
「网络与文学」
インターネットと文学に関して。両者の相違点と共通点。インターネットと生命科学が、外側と内側から人類を変えようとしている、という現状認識。インターネットによって、物体としての本が消えるという不安。そして、無料であらゆる文学が公開されることによって出版が消えるのでは、という不安。余華はその出版の消滅の不安に対して、心配はない、という認識を示します。別の制度が登場する、という考えがあるためです。また読書が消滅するのでは、という不安に対しても、人類は読書から離れることはないという認識を示します。
インターネットは作者と読者の関係を変えて、誰もが作者と読者になることができる機会を与えた、と余華は認識。簡単にまとめると無限の空間と無限の自由。文学はその時々の時代の人々の心に残り、また文学史にも残る、というはなし。インターネットは文学と同じように虚構の世界をつくりあげる、という考え。そして、インターネットはさらに進んで、文学とクレジットカードを組み合わせたようなものだ、という考えなど。1999/5/9
「文学和民族」
韓国民族文学作家会議での講演の原稿。日本の文学はすこし理解しているが韓国の文学はほぼ知らないというはなし。なぜならば、中国では、韓国文学の出版がほとんどないため。ただ、大江健三郎のノーベル賞受賞スピーチで中国韓国に言及したように、連帯がうまれつつあるのでは、という認識。韓国の学者が、韓国の政府主導の「民族文学」に対する疑義は、中国の現状とも通じる、という認識。民間から歌を拾ったハンガリーのバルトークへの言及。その在り方こそが、民族に根付いたものといえるのでは、という認識。また、ハンガリーと韓国は置かれた位置が近いのでは、という考え。また中国も同じように文化大革命を知らずアメリカに憧れる若者が圧倒的に多く、グローバル化の中で厳しい位置に置かれているということ。グローバル化において重視するべき、目を向けるべきは、差異性。1999/6/5
「没有一条道路是重复的」
小説集の序。読書とは何か、という問いに対する余華の考え。2001/10/15
「谁是我们共同的母亲」
莫言が執筆した《欢乐》中の蚤にたかられる母の描写が激しい批判にさらされたことに対する分析と擁護。人々は文学の中に理想の「母」を追い求めて、現実の母を拒否するが、莫言はかえって母を描いている、という指摘。そして、全体から切り離して母を侮辱した、と批判することの無意味さ。1995/4/11
「歪曲生活的小说」
斯卡尔帕という小説家の作品に関して。きちんとした現実の上に、歪んだ生活が描かれている、という指摘。2003/1/2