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中国文学映画関連 備忘録

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余华《世事如烟》

《世事如烟》は余華の中編小説。様々な人物の相関関係を描いた作品。

物語の軸になっているのは、少女4。

主に登場する人物は、下記のようになっています。

息子が5歳になってから病で寝込んでいる男性7。男性7を看病している妻。17歳になった孫息子といっしょに寝る老女3。悪夢にうなされている少女4。少女4の声を愛好してひたすら聞き取ろうとする盲人。死者の子供を取り上げることになる助産婦の老女(接生婆)、助産婦の息子で調子が悪くて灰色の服の女性を見かけたら止まるように、と占い師にいわれるタクシー運転手。4人の娘と1人の息子とおよび多くの少女から生命力を吸い取って生き延びている90歳の占い師(算命先生)、生命力を失いかけている占い師の息子、7人の娘を次々と3000元で売ることによって生きている男性6、父親によって売られることを恐れている6の娘、娘が妊娠しないことで悩む灰色の服の女性(灰衣女人)。金持ちでタクシー運転手を自殺に追い詰める2。

多くの登場人物が関係し合い、最終的に多くの者が抑圧、あるいは搾取されて死に追いやられていきます。

水に関する描写が特徴的。作品の中では、水が死を暗示しているようです。

灰色の服の女性はその母色の服をタクシー運転手に轢かれた後突然死にます。タクシー運転手は2によって辱められて死に追いやられます。算命先生の息子は父親に敗れて死にます。助産婦の老女は死者の赤子を取り上げた後、死にます。3は孫息子とも子供を身ごもった後姿を消します。6は桃の木の下で死にます。4は服を脱ぎ捨てて、歌を口ずさみながら入水自殺します。そして、盲人は4のあとを追い、水に魅入られるようにして、入水自殺します。

さまざまな読解が可能に思われます。

作品は権力と暴力によって虐げられるのは弱者(老人と女性)だという事実を浮き彫りにしています。

http://www.yourandu.com/big5/yourandu/185/14121.html
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余华《温暖和百感交集的旅程》収録エッセイ4

《温暖和百感交集的旅程》は、余華のエッセイ集。
《读书》という雑誌の連載をまとめたものだそうです。

「卡夫卡和K」
フランツ・カフカという人とその作品に関して。小説と日記から、カフカを分析。カフカを『城』に登場するKになぞらえて、「外来者」としてしか生きることができなかったことを浮き彫りにします。

たとえば、スポットライトを当てられるのは、刀で自分の体をすぱっすぱっと切っていく、「一切が私にとっては虚構に属する」という日記の記述など。また、『城』において、官僚機構の力が住民によって形成される様子にも注目。権力の計り知れなさ、住民の無感覚を分析します。またカフカが性と権力の関係に敏感だったこと、カフカの幸せとは言い難い性(肉体の欠けた、想像の性)の経験などにも着目。そして日記に基づいて、外部と内部が分裂した中で生きた人としてカフカを捉えます。

「文学和文学史」
文学史において注目されることの少ないブルーノ・シュルツの作品に関して。「大鰐通り」を比喩に用いながら、空白となっている地図の中でブルーノ・シュルツを描き出します。言及されるのは「鳥」「あぶら虫」「父の最後の逃亡」など。鳥を買うことに固執する父、あぶら虫になってあらわれる父、カニになってあらわれて最後には煮られる父。

ブルーノ・シュルツはカフカと同じくユダヤ人作家。ドロホビチに生まれたあと、ヨーロッパ各地を転々。第二次世界大戦中ゲシュタポ将校に画家として雇われて生き延びますが、ゲシュタポの無差別殺人に巻き込まれて銃殺されました。

また、同じように文学史で注目されない樋口一葉「たけくらべ」に関しても言及。ヘミングウェイの評価したスティーヴン・クレインに関してもふれています。そして、各々の読者が、各々の読書史でもって自分に属する文学史をつくるのだ、とまとめます。

威廉·福克纳」
フォークナーに関して。違う年代に出版された『響きと怒り』《喧哗与骚动》中国語版から語り起こして、フォークナーの創作に関してまとめます。一切むだがない、という指摘など。

胡安·鲁尔福」
文学の継承に関して。コロンビアの小説家ガルシア・マルケスが創作で行き詰っていた時、メキシコの小説家フアン・ルルフォの作品に出合い、それによって新しい道を拓いた、というはなしなどから、文学の継承に関して論じています。フアン・ルルフォは『ペドロ・パラモ』の作者。

その他、多くの作家に言及。フォースター、エリオットの関係など。

「文学は道と同じであり、両端どちらにも方向があり、人々の閲読の旅はフアン・ルルフォを通じた後、ガルシア・マルケスの駅に到達する。ひるがえって、ガルシア・マルケスを通じて同様にフアン・ルルフォに到達することもできる。二人の各々に独立した作家は彼らの各々に独立した地区のように、ある精神の道が彼らをつなぎ合わせて、彼らはすでに双方ともますますよくなる。

余华《温暖和百感交集的旅程》収録エッセイ3

《温暖和百感交集的旅程》は、余華のエッセイ集。
《读书》という雑誌の連載をまとめたものだそうです。

「山鲁佐德的故事」
『千一夜物語』に関して余華の読解が示されています。言及されるのは、第351夜など。細かい点が重大な結末に結びつく、その妙について。

その他、細かい点が重大な出来事を決定するということを描き出した人としてシェークスピア『ベニスの商人』、ステファン・ツヴァイクなどに言及。ツヴァイクの記述としてあげられる例は、オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼすことができたのは小さな門があいていたため、ナポレオンの滅亡を決定付けたのは命令を墨守した将軍グルーシーのため。


「三岛由纪夫的写作与生活」
三島由紀夫という人物の自害に関して言及しています。非常に意味深長なフレーズが多いです。たとえば、「創作と生活は、一人の作家にとって言えば、二重でなければならない」など。

文章の最後の部分は出色。「三島由紀夫は自殺の前、二つの事で完全に安心できなかった。一つは『豊饒の海』英訳版のアメリカ出版のこと、もう一つは自分の死が隠蔽されないかという心配だ。彼の自殺が引き起こす社会の反応への関心は、一部の作品を世に問うた後の反応への関心と同じであり、あるいは彼は後者に対してさらに心配していた。だから彼の最後の作品は『豊饒の海』ではなく、切腹自殺だった。生命の最後の時に、三島由紀夫の作品の中で憧れていた死と鮮血は、遂に立ち上がり、死と鮮血は三島由紀夫を叙述した。」

「内心之死」
心理描写とは何か、という問いに対する余華の答え。最も描くべき様々な感情が渦巻く時の心理は描写できない、という主張。

言及されるのは、アーネスト・ヘミングウェイ「白い象のような山並み」とアラン・ロブ=グリエ『嫉妬』の叙述。ヘミングウェイの剥き出しとグリエの淡々とした視線による描写。テーマはそれぞれ「堕胎」と暗示される「姦通」。

その後言及されるのは、フォークナー「Walsch?」とドストエフスキー『罪と罰』。二つの殺人の場面における殺人者の描写。そして、ドストエフスキーに通じるようなスタンダールの『赤と黒』の叙述に関して。

余华《温暖和百感交集的旅程》収録エッセイ2

《温暖和百感交集的旅程》は、余華のエッセイ集。

《读书》という雑誌の連載をまとめたものだそうです。

「布尔加科夫与《大师和玛格丽特》」
ミハイル・ブルガーコフの執筆した『巨匠とマルガリータ』に関して。物語の中盤になってから主要な人物が登場する点に対する指摘、マルガリータという人物が著者自身にとってどのような意味を持っているのか、という考察など。

とくに「ユーモアと現実」という部分は出色。ユーモアを構造とした、という記述などは、余華自身の創作に対する解説になっていると読み解くことも可能ではないかと思われます。
「博尔赫斯的现实」
ボルヘスという奇妙な作家の在り方に関して。非常にわかりやすいボルヘス入門のようになっています。
「契诃夫的等待」
チェーホフの『三人姉妹』とベケット『ゴドーを待ちながら』における、「待つ」という行為の違いについて。また、『三人姉妹』と『ゴドーを待ちながら』を組み合わせた林兆華の作品に関して。

さらに、ダンテとプルーストの叙述に関しても考察。

余华《现实一种》

《现实一种》は余華の中編小説。山岗、山峰兄弟一家の物語。

山崗と妻の間には四歳の息子・皮皮がおり、山峰と妻の間には赤子がいます。山崗たちの母親は奇怪な身体の不調に悩まされ続けてしばしば泣きますが無視されています。大人が出かけている間に皮皮が赤子を落としてうっかり殺してしまいます。山峰は激怒して、皮皮を殺そうとします。山崗とその妻は拒否しようとしていますが、結局皮皮を引き渡して皮皮は蹴り殺されました。その後、山崗は山峰を木に縛り付けて、山峰の足に肉の汁を塗り、犬に舐めさせます。山峰は笑い過ぎて死にました。その後、山崗は掴まり、銃殺されます。そして、その死体は医者たちによって切り刻まれて、医療のために使用されました。

余華の初期の作風を代表する小説のひとつ。

物語の中では、さまざまな暴力が描かれています。暴力の応酬が続くことにより、登場人物は次々と破滅していきます。

血の臭いと暴力こそが余華初期のテーマだと指摘する研究者もいますが、その根拠となりそうな作品です。感情のこもっていない無機質な文体、救いのない展開などの特徴もみられます。

母親の身体に対する違和感の持ち方(体の中の骨が折れていく)などは極めて興味深いです。また、最後の山崗の身体がばらばらにされていく描写も異様であり、分析してみる価値がありそうです。