侯孝賢《悲情城市》 映画(中文) 2017年12月03日 0 《悲情城市》は侯孝賢が1989年に製作した台湾映画。1945年日本統治時代が終わってから、1949年中華民国が台北に遷都するまでの期間を描いています。二二八事件を描いたことで賛否の的になったそうです。 映画の紹介では、「林家の長老・阿禄(季天祿)の四人の息子たちの生き様をパノラミックに描く。長男、文雄は台北の顔役的存在だが、その才覚に欠け、次男は戦争中の徴用で死んだ。三男は解放後、戦後派らしい生き方をしていたがやがて発狂してしまう。四男は郊外の町で写真館を営み、国民党の進攻に抵抗する友人らに心情的に味方をしている……」というふうにまとめられています。 1989年 第46回 ヴェネチア映画祭 金獅子賞を受賞。 映画の中では、さまざまな言葉が絡み合っています。 物陰からとるショット、アップが少なく、長廻しが多い点などが特徴的です。 《悲情城市》(1989■侯孝賢■李天禄、陈松勇、何瑷芸、高捷、梁朝伟、辛树芬 ■『悲情城市』) PR
竹内好「日本人の中国観」 中国関連の本(日) 2017年12月03日 0 「日本人の中国観」は竹内好が1949年9月号『展望』に「伝統と革命-日本人の中国観」と題して発表した文章。『竹内好セレクションII アジアへの/からのまなざし』収録。 1948年に訪日した張群の言葉に応答する形で執筆されています。張群の提起した日本においてまだ「思想革命と心理建設」が必要だという認識は正しく、その点を大部分の日本人は読み違えているというふうに竹内好は主張します。 そして、中国人がまだ日本の民主化に対して不信を持っている点にも理解を示します。また近藤鶴代などが対支文化事業部のようなものを復活するのも一案だと思う、といったことを例に挙げて戦前戦後、日本人の中国への侮蔑意識が消えていないと指摘します。 そして近代化において、日本は表面的なものに終わって失敗し、中国は根本的に成し遂げたという仮説を示します。
魏巍《这是最可爱的人》 中国関連の本(中) 2017年12月03日 0 《这是最可爱的人》は、魏巍が朝鮮戦役に従軍した際に執筆した報告文学。1951年4月11日《人民日報》に掲載。その後、多くの教科書に掲載されたとのこと。 戦地で勇敢に戦う中国人兵士を讃える文章となっています。这是最可爱的人とは兵士たちのこと。 朝鮮人の子供を救うため、盛り上がる家屋へ飛び込む兵士の物語、雪を食べながら任務を果たすまでは帰らないと語る兵士の物語などなど。 魏巍は著名な散文作家。1978年朝鮮戦争に関して綴った『東方』で1981年第一回届茅盾文学賞を受賞したそうです。1920年生まれ。2008年死去。
松井博光『薄明の文学―中国のリアリズム作家・茅盾』 中国関連の本(日) 2017年12月03日 0 『薄明の文学―中国のリアリズム作家・茅盾』は、松井博光による茅盾研究。 茅盾が日本滞在時何をしていたのか、どういう心境であったのか、といった点を茅盾自身のエッセイや資料から実証的に明らかにしていく部分などは非常に面白いと感じました。1979年出版なので、出版後にさらにさまざまな研究は進んだかもしれませんが、基本的な整理としては非常に優れています。 また、文学研究会の成り立ちに関してまとめた部分は流派研究として非常に面白いです。 第1章 霧と虹と紅葉―京都の茅盾 1 京都の霧/2 茅盾の来日と景雲里/3 虹と紅葉/4 陰陽鏡と嵐山/5 《牯嶺から東京へ》と《『倪煥之』を読む》/6 長篇『虹』/7 京都の隣人 第2章 文学研究会と大革命 1 商務印書館と交渉した若者/2 『新社会』グループ/3 葉紹鈞、孫伏園、周作人ほか/4 商務印書館の茅盾/5 『小説月報』の刷新/6 創造社と茅盾/7 〈五・三十〉前後/8 矛盾の爆発―広州と武漢/9 牯嶺から上海へ/10 『蝕』と《厳霜下の夢》
竹内好「現代支那文学精神について」 中国関連の本(日) 2017年12月02日 0 「現代支那文学精神について」は竹内好が1943年7月『国際文化』に発表した文章。『竹内好セレクションII アジアへの/からのまなざし』収録。 竹内好らしい文章なので、意味をとりづらいですが、基本的には中国に対する考えが表明されています。 竹内好は、古典を通して中国を理解しようとする立場、あるいは過去との連続性を通して中国を理解する立場を批判します。そして、近代を実現する中国に目を向けるべきとします。 近代化した世界がどう中国を取り込んだか、ではなく、中国がどう近代化を果たしたか、というふうに中国を主語として、近代化を考えていき、五四新文化運動をその契機とみなすべきと主張しています。 まとめの部分は暗示的です。 「現在の支那は、文化的にはまことに荒涼たるものがある。表面に現われた動きは殆ど何一つ把えることが出来ぬ。たまに動きに似たものが浮遊しても、それは逆に沈黙を深めるだけに過ぎぬ。しかし、その沈黙の底には、爆発するものが潜んでいる気配がある。それを思うと、私たちは戦慄を禁じ得ぬ。五四以後の文学精神は、表面の活動を阻碍されていても沈黙の底に脈々と流れていそうな気がする。その精神の本拠を衝くのでなければ、表面に泛んだ泡沫的現象など把えてみとたころで、何もならぬと思われる。現在の支那民衆の第一の念願は、私の信ずるところでは、彼らの近代を貫くことである。つまり国民的統一を完成することである。云い換えれば彼らの現代文学を描くことである。仮に私たちの大東亜文化の理想がこの方向に背馳するものであるとするならば、私たちは彼らの協力を求め得ぬだろう。逆に、現代支那が全き体系として包括される場所へは、彼らは欣んで従うだろう。ただ、そのような場所は、近代日本と近代支那が同列に否定されることによって全く生かされるような場所でなければならぬが、その実現のためには、異常な決意と努力が私たちに要求されるだろう。」