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中国文学映画関連 備忘録

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曾国祥《七月与安生》

《七月与安生》は、二人の対照的な女性の友情を描いた青春映画。去年上海にいる間に上映されて友人から勧められたにも関わらず見逃していました。改めて見ましたが、個人的にはすごく面白かったです。(監督・曾国祥、プロデューサー・陈可辛、主演・周冬雨、马思纯、李程彬)

物語が主に描くのは七月(马思纯)と安生(周冬雨)。七月は落ち着いた優等生的な女性です。周囲の期待に応えるため、一般的な意味での「幸せな人生」を求めて堅実な生活を送ります。一方、安生はいたずら好きで、自由を求める奔放な女性です。ロックバンドのギタリストとともに北京へ向かい、その後はつき合う相手を変えながら、世界各地を漂流します。二人は全く気質が異なりますが、幼馴染であり、お互いに対して憧れを抱きます。

幼い頃、安生はよく七月の家に遊びに来ました。その後、七月は大学に進学して、安生は美容学校に進みますが二人は相変わらず仲良しでした。しかし、ある時、七月の彼氏である苏家明(李程彬)に、安生も心を奪われているらしい、ということが分かります。安生は気まずさもあったのか、ロックバンドのギタリストとともに北京へと去ります。七月は涙で安生を見送りますが、胸中は複雑だったと推測されます。その後、二人は文通を続けます。七月は堅実に銀行員になり、安生は世界を放浪します。苏家明もまた、二年後には結婚すると七月に約束して北京へ向かいます。その後、七月と安生は再開して上海旅行に行きますが大喧嘩になり、別れます。さらに時が経ち、苏家明は安生と再会、その後大切な人を亡くして自暴自棄になっている安生と関係を持ちます。何かを察した七月が北京まであらわれて、七月と安生は激しくぶつかりますが...

安妮宝贝の作品が原作となっているためなのか、物語るということ自体を対象化、問題化しています。

異なる三つの結末が次々と描かれます。安生の記しているネット小説の結末、安生が苏家明のために用意した結末、そして、現実です。その部分が極めて興味深いです。

そして、马思纯、周冬雨の演技も素晴らしいです。

違和感を持たせるショット(たとえば周冬雨の目だけを長時間にわたってうつしつづける、など)が独特。エンドロールでは岩井俊二への謝辞が流れます。

余华《祖先》

余华《祖先》は余華の短編小説。

ゴリラのような先祖があらわれる物語。

私は小さな子供です。ある時、毛むくじゃらの動物が現れて私を抱きかかえます。母親をはじめとする村人は私を救おうとしますが、私は心地良さを感じます。結局、動物が私を放したため、私は何事もありませんでした。その時、父親は何もしないでぼんやりしていたため、村人から馬鹿にされます。父親は決意を固めて、銃を持ち、村の中に入っていきますが、失踪します。何年かたち、新しい教師が村に現れます。教師は私がどうして学校に来ないのかといいますが、父がいないからというと黙ります。またゴリラのような動物があらわれて私は親しみを覚えますが、村人に斬り殺されて、肉は村人に食べられてしまいます。私は悲しくて狂ったようになります。教師は先祖を殺した不肖者と村人を罵ります。その後、また動物が現れますが、村人が発砲して追い返します。。。

張新穎《沈从文与二十世纪中国》

張新穎《沈从文与二十世纪中国》は、復旦大学教授・張新穎の沈従文に関する講義をまとめたもの。文体は、極めて平易です。


沈从文与二十世纪中国——从“关系”中理解“我”、文学、思想和文化实践
沈従文の文学に対する分析。張新穎が強調するのは名もなき人への目線、などです。

“联接历史沟通人我”而长久活在历史中——门外谈沈从文的杂文物研究
沈従文の文学者としての前半生と、文物研究者としての後半生は深い部分でつながっている、という分析です。たとえば、民間への注目、人の素朴な心への注目、名もなき人々が織り成しているのが歴史であるという認識などなど。

中国当代文学中沈从文传统的回响——《活着》《秦腔》《天香》和这个传统的不同部分的对话
沈従文の文学の特徴が、余華《活着》、贾平凹《秦腔》、王安憶《天香》と通じている、というような分析。

“剪辑”成诗:沈从文的这些时刻
沈従文の詩らしき創作に関して

唐敏《女孩子的花》、叶梦《羞女山》

唐敏《女孩子的花》
育てている水仙のことを綴ったエッセイ。水仙は夫婦をあらわしているかのような花だ。女子を愛するのでこの世界に女子を生みたくない、という思いから男子を生みたいと思う。そして、女子の花である水仙を育てるが、夢の中ではお湯の中に沈み、現実世界では蝋燭で自刃する。

不思議なエッセイ。

水仙に託して女性に対する著者の考えを綴っているようなイメージ。


叶梦《羞女山》
女性の裸体のように見える山を訪れた時のことを綴ったエッセイ。羞女山は恥ずかしがっているように見えない。著者は想像を広げて羞女山は実は女媧なのではないかと考える。