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中国文学映画関連 備忘録

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王征《日常经验的再现——论余华近年来创作走向》

《日常经验的再现——论余华近年来创作走向》は王征による余華論。

もともと《上海师范大学学报》2000年第1期に掲載。

さまざまな観点から余華文学を分析する内容となっています。

「名前を失った主体」・・・余華の作品の中では、名前を失っているものがいる、という指摘。
「民間の血」・・・言及されるのは、《一地鸡毛》《许三观卖血记》《活着》など。血に関して。

「民間倫理関係の再発見」・・・初期作品では子供の視点から恐ろしい「父」が描かれていたが、あとになると父の視点から歴史の残酷さなどが描かれるという指摘。

「"三"あるいは"繰り返し"の機能」・・・民話などのなかでは三という数字が頻出することを踏まえて、余華の小説のなかでも三が頻出することを振り返る内容。言及されるのは、《鲜血梅花》《此文献给少女杨柳》《许三观卖血记》など。

上海の復旦大学の研究者たちの学説の影響がみられます。
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汪跃华《记忆中的“历史”就是此时此刻──对余华九十年代小说创作的一次观察》

《记忆中的“历史”就是此时此刻──对余华九十年代小说创作的一次观察》は汪跃华による余華論。

もともと《当代作家评论》2000年第4期に掲載。

典型的な余華論。

・主に、余華の八十年代の創作と、九十年代の創作の間にあるギャップに関して論じた論文。そして、表面的には差異があるように思えるが、現実に対する追求という本質においては変化していない、という結論を導き出します。

また、余華が九十年代の創作のなかで歴史を取り上げていながら、その歴史は現在に通じたものとして捉えられる、と指摘します。

歴史=現在

その他、余華の現実の定義に関する分析など。


倪伟《鲜血梅花—余华小说中的暴力叙述》

《鲜血梅花—余华小说中的暴力叙述》は倪伟による余華創作の中の暴力にまつわる叙述に関する論文。

もともと《当代作家评论》2000年第4期に掲載。示唆に富んだ読み応えのある内容。

・余華の三島由紀夫に対する指摘「創作と生活は、一人の作家にとっては、二重であるべきだ」「彼の作品の中には死と鮮血が満ち溢れている」を引用。そして、それは余華にもあてはまると分析。

・余華は病院で育ったことが自分の創作に影響した、と記している
⇒著者は鮮血と死に直面した時も恐れないことは暴力を反復して叙述する動機にはならない、と指摘。ただ記憶が影響している部分には同意して、余華の創作の背後には、「文化大革命」の影響があると指摘する
⇒文化大革命の際の壁新聞が文学への入り口

・余華にとっての現実とは何か
⇒著者は「余華にとっては、本当の現実は一つ一つの具体的な事件の累積ではなく、入り組んで散乱した事件の背後に隠された関係構造である。このような関係構造は特定の時代の社会構造と対応しているだけではなく、同時に人類の基本精神構造あるいは生存(実存)状況の理屈でもある。」
⇒つまり、物事の裏側にある構造、道理への注目

◇注目する作品
・《现实一种》
⇒物語は、子ども・皮皮の無意識化の過ち(赤子の死)から始まる。子どもも、暴力の快感を知っている。
⇒夫の妻に対する日常的暴力が示すのは、死へと飛翔する時の暴力のきらめきは、平常のぐっとこらえる暴力の変形だということ。
⇒男性は暴力によって尊厳を保つ。暴力は、獣性の残留物ではない。
⇒物語のラストの人体の解体は、「暴力とは何か」という問いを突き付ける。肉体に対する直接的な暴力より、科学・制度によって正当化された暴力のほうがより深刻。

・魯迅は、中国の国民性批判をおこなったが、余華は人の本性に原因があるとみる

・《河边的错误》
⇒人々は狂人の暴力に無関心。狂人を人として見ていないから。
⇒狂人の暴力は、狂人を養っていた老婆の被虐性によってあおられた。
 加虐と被虐の関係。被虐も時として消極的な存在の承認。
⇒人々は、狂人に対する暴力の発動には無関心である。暴力とはなにか考えさせられる。
⇒馬哲は、犯罪を繰り返す狂人を射殺するが全く罪の意識はない。民のための正当な行いと思っている。しかし、馬哲の狂人を装って裁きを免れる自体が、馬哲の正当性を揺るがす。正常と非正常の境界線はどこにあるのか。
⇒作品が示しているのは暴力と権力と権力言語の共犯関係

・子どもと大人の関係は複雑だ
⇒一般的に大人によって子どもは迫害される。しかし、子どもも決して無垢ではない
 子どもも大人の権力構造に影響されて、そのうちに取り込まれつつある。

・余華作品が暴力を描くのは暴力に対する批判のためだけではないだろう。余華はまるで暴力に魅了されているかのようだ。
⇒その原因は?
⇒手掛かりになるのは《朋友》という作品。余華自身の少年時代のことと思われる内容。

《朋友》
・力に対する憧れ。文革の時代が背景にはある

《一九八六》
文革に関しての作品。書き記すことの暴力。

・余華はドストエフスキー『罪と罰』に言及するが、それを髣髴とさせる。
⇒その暴力を行った人に対する描写のもっている説得力のため。暴力の残酷さの程度のためではない

・文化大革命がキーワード
⇒文化大革命の時期、暴力の合理性と合法性が人々の心に深くしみこんだ。外在する法律制度、内在する道徳の二重の拘束から逸脱した時代、人々は、整備された時代にいたら味わえないような解放感を得た。

・もっとも注視するべきは、表面的な暴力ではなく、精神の暴力、思想の暴力。そして、暴力を生み出す精神構造

俞利军《余华与川端康成比较研究》

《余华与川端康成比较研究》は兪利軍による余華と川端康成の比較研究。

もともと《外国文学研究》2001年第1期に掲載。

基本的には、余華が川端康成の作品『伊豆の踊子』などを読みふけっていた、という記述に基づいて、両者の共通点と相違点を挙げていくものになっています。

・余華と川端康成の少年期と青年期は恵まれていない点で共通している←疑問有
共通点
⇒川端康成は幼い頃にほとんどの肉親を失い、ほとんど失明した祖父とともに生活。
⇒余華は、父親は医者、母親は看護師、ほとんど構ってもらうことがなく、兄に苛められる

相違点
⇒川端康成が向き合ったのは祖父の老衰と失明
⇒余華が対峙したのは兄の権力
それが、二人の作風に影響した。

共通点
⇒川端康成の初期端篇『伊豆の踊子』 寄宿生活の影響から自然への憧憬へ
⇒余華の初期短編《第一宿舎》は川端康成の影響が深い。《疯孩子》も寄宿生活の影響

共通点
⇒川端康成は社会が激変しているが、政治には関心を持たず回避して、かえって周縁におかれた人に目を向ける
⇒川端康成をこのむ余華は柔らかく細やかな作品からひっそりとした美が情緒に富むとまなぶ。そのあらわれのことば「虽是微小的人生,而我觉得是咀嚼不尽的」


共通点
・小人物への注視・社会の下層にいる人への関心
・極端な個人主義、極端な視点(虫の死を細かく観察、など)
・奇妙な比喩、『温泉宿』、『禽獣』のラスト(死にゆく娘の化粧姿がお嫁に行くみたい)
 東洋の言語だからこその象徴性

相違点
・余華のほうがユーモアの要素が多い
・あとになって余華の作品は変化していく。川端の影響から、カフカの影響へ


⇒ふたご座の川端はあるスタイルの創作に厳格に依拠して、哀傷はあるが憤怒はない、苦しみうめくことはあっても反抗はない。虚無と絶望を用いて、潜在意識と無意識の行動を用いて、現実に対する反応をおこなおうとした
⇒牡羊座の余華は敵対、緊張、利己、残忍、暴力、さらに多くの思想を含む。「叫ぶ胡蝶」「灿烂」「响亮」「暴力」


郑国庆《主体的泯灭与重生—余华论》

《主体的泯灭与重生—余华论》は郑国庆による余華論。
もともと《福建论坛》2000年第6期に収録。

余華の作品を発表された順番に沿って、読解していく論文。

・初期の三篇はみな同じような特徴を持っている
  (《十八岁出门远行》 《西北风呼啸的中午》 《四月三日事件》)
⇒十八歳・成人式を迎えた少年が、ファルス・父、言語、権力の中に分け入って行かざるを得ない展開となっている
⇒「私」が事件に巻き込まれていく。「私」が主体、その感情が問題となる。

・《一九八六年》は文革の創傷を扱っている。
⇒余華の叙述言語は、他の文革に関する文学と比べて、際立っている。なぜならば、他の文革に関する文学は終わった後の立場から「訴える」「悔やむ」「悼む」ものだが、余華は異なるからだ。
・余華の場合、狂人はもう一人の有名な名のある人物としてではなく、「現実主義」によって血肉や性格を持つ主体として描かれている。「訴える」「悔やむ」能力がなく、ただ自覚しないで心理上、行為上で恐怖の歴史を再現して、現実を歴史として誤る。

・《河边的错误》もまた狂人の物語だが、この狂人は抽象的で生理上の狂人。一人の人称がなく、性格がなく、心理がない「物」。
⇒無情な創作のあらわれ

・《偶然事件》では本当に力を持つものが姿をあらわす、つまり言語。

・《在细雨中呼喊》 苦難と苦悶の物語
⇒著者自身の立場からすれば、それは作風の変化ではなく、原点への回帰「生命の痛感」
⇒「私」に立ち返る

・民間形態への到達 《活着》《许三观卖血记》
⇒抽象的な類にかわって生き生きとした個人をもってくる
⇒単純化した比喩からも、叙述が、農民の立場からになっていると分かる
 知識分子の形式から民間の形式へ

・しかし、《活着》《许三观卖血记》の主題は異なる。前者は忍耐、後者は堅忍。

・「民間」にも欠点はある。それに関しても踏まえながら進んでいくべき。