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中国文学映画関連 備忘録

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6/19 余華『ほんとうの中国の話をしよう』

余華『ほんとうの中国の話をしよう』は、十のキーワードから中国の現状を分析したエッセイ。十のキーワードとは「人民」「領袖」「読書」「創作」「魯迅」「格差」「革命」「草の根」「山寨」「忽悠」。余華自身の少年時代の記憶などもつづられていて、非常に興味深いです。六四天安門事件に触れており、中国大陸では出版されていないそうです。


全体を貫くキーワードは文化大革命といえそうです。余華は、現在のさまざまな矛盾を含んだ極端な市場経済化を考える時、常に文化大革命に立ち返ります。中国全体が極端な平等志向から極端な自由志向に振り子のように揺れ動いたことを理解するためには、文化大革命をまず考える必要があるという論理です。汪暉が、いま改めて中国における文化大革命の扱われ方を問題にしていることと呼応していて非常に興味深いです。(「中国における一九六〇年代の消失――脱政治化の政治をめぐって」)


「人民」は六四天安門事件に関して記述したものであり、当時「人民」という言葉を余華自身が本当に理解したと記してあります。余華が、当時の北京を次のように評価していることは非常に興味深いです。「1989年の北京は、アナーキストの天国だった。警察が急に姿を消し、大学生と市民が自発的に警察の任務を果たした。あのような北京が再現することは、おそらくないだろう。共通した目標と共通した願望が、警察のいない都市の秩序を整然と維持していた。」(p13)六四天安門事件に対する評価はさまざまあります。共産党政権の非道を指摘する声、学生がより賢明に撤退を選択していたら逆に民主化が進んでいただろうという声など、見方は全く一致しません。ただ、当時その場にいた人間のひとつの見方を余華の記述から知ることができます。


「領袖」では、余華の視点から毛沢東という人物がまとめられています。とくに以下の記述は面白いです。「中国の歴史を概観すると、貴族出身であろうと、草の根出身であろうと、皇帝になった者はみな、いかにも皇帝らしい顔つきをして、皇帝らしい言葉を使ってきた。毛沢東だけは例外で、領袖となったあとも、ときどき領袖らしからぬやり方をする。」(p24)そして、その具体例として長江を泳いだことをあげています。一般的に、共産党政権成立後の毛沢東は、「暴君」「皇帝」といった言葉によって形容されることが多いといえます。しかし、余華は、毛沢東が皇帝的ではない側面を一貫して持ちえたからこそ、非凡だったと指摘しています。非常に考えさせられます。毛沢東と いう人が何者だったのかということは改めて考える必要があると感じます。


「読書」は本のない時代に育った余華の読書経験をまとめたもの。毛沢東・魯迅の文章、およびに社会主義革命文学以外の文学が毒草として排除された状況は、今日本に住む人間からすると想像がつかないです。「創作」は、余華の創作の契機をまとめたもの。子供の頃「赤い筆の達人」として壁新聞などに、共産党を称揚する文章を掲載していたことから創作が始まったと記されていて、おもしろいです。文革が終わった後、幸運にも文芸雑誌に投稿した小説が掲載されて、小説家としてデビューします。しかし、血と暴力にかかわる小説を書き続けて、精神に異常をきたす寸前だったという述懐もあります。「魯迅」は、子供の頃魯迅を読まされ続けたため魯迅をまったく面白くないと 思っていたが、小説家になった後改めて魯迅を読み、初めてその価値に気付いたという経緯をまとめたもの。余華は、デビュー後、魯迅精神の継承者といわれて、一時不快に感じていた、という記述があり、興味深いです。


「格差」は中国の格差問題の深刻さを提起したもの。具体的なデータやエピソードに基づいて現在の格差を問題化しています。2006年、西南の貧困地区を訪れると子供達は一人もサッカーを知らなかった、というCCTVの司会者・崔永元のエピソードなどは印象に残ります。また、「片方が華やかな歓楽街、解放が壁の崩れた廃墟のようなもまのだ」(p146)という比喩などは印象に残ります。「極端に抑圧された時代が社会の激変にさらされると、必然として正反対の極端に放縦な時代がやってくる。ブランコと同じで、こちら側で高いところまで揺れれば、向こう側も必ず高いところまで行く」(p134)と余華は認識しています。そして、文革時期論じられていた空虚な思想的格差ではなく、実 際の社会的格差が問題になっていると指摘します。


「革命」は現在の経済発展こそが、大躍進式の革命運動であり、文革式の革命的暴力だと指摘したもの。具体的な経験に基づいて、文化大革命と現在の急激な経済発展の背後に同じ原理があるという指摘がなされています。「草の根」は、暴騰と暴落を繰り返す「草の根」の人々に関してつづったもの。売血によって億万長者になった人など、引用されるエピソードが非常に心に残ります。事実は小説よりも奇なり、という言葉を思い浮かべます。「山寨」は日本でも問題視されるような中国の模倣・コピー文化に関してまとめたもの。オバマが中国の携帯電話ブランドに、毛沢東が浙江省のカラオケ店のマスコットになり、そのうえ中国各地に天安門とホワイトハウスが出現したことなど かつづられています。


「忽悠」は、ホラをふくというような意味を持つ「忽悠」という流行語から世相を分析したもの。もともと趙本山が使ったことによって中国中に広まったそうです。奇妙なエピソードが数多く記されています。とくに「忽悠」の結果生み出されるだろう町を予想した文章は出色です。「我々は不条理文学を読んでいるかのようだ。「コカ・コーラ」という名前の都市には歩道がない。歩道は露天商に占拠されている。人々はカンフー映画のヒーローのように、猛スピードで走る車の間を機敏にすり抜けていく。街路、橋、広場、住宅地の名前は奇々怪々だ。「黒妹歯磨き粉街」「第六感コンドーム橋」「三鹿粉ミルク広場」「ABランジェリー団地」など。この都市の地名は、中国の各業種のさ まざまなブランドの寄せ集めである。食品、衣料、日用品、住居、乗物、性具、育児用品・・・何でも揃っている。街路の番地は混乱していて、順序がデタラメだ。こんな街路に足を踏み入れたら、まるで迷宮の中にいるようで、永遠に訪問先にたどり着けない。このとき、不条理文学は神秘主義の息吹を撒き散らす。カフカやボルヘスなら、このような都市に暮らすことを好むだろう。私も今後、そんな小説を書くかもしれない。書名は「忽悠」だ。」(p244)現代中国のデタラメな部分に関して、皮肉もこめながら、指摘しつくしています。

余華という人がどれほど、中国社会に関して、冷静に、なおかつ思いをこめながら考えているかが伝わってきます。また、メッセージが明確であり、収録されているエピソードが面白いので、普通に読んでいるだけでも非常に面白いです。


余華のこれまでの歩みに関しては、翻訳者でもある飯塚容さんの「解説」がきれいにまとめていて分かりやすいです。

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6/18 『「規範」からの離脱 中国同時代作家たちの探索』

『「規範」からの離脱 中国同時代作家たちの探索』は、日本の中国文学研究者が、中国の現代文化の潮流を様々な角度からまとめたもの。現代の小説、演劇、詩などが論じられています。国際交流基金「異文化理解講座」の書籍化。

現代中国の演劇、詩に関しては全く詳しくないので、佐藤普美子「第四章 現代漢語詩歌の模索 一九九〇年代詩歌の諸相」と飯塚容「第五章 小劇場、前衛劇の試み 林兆華、孟京輝から李六乙、田沁〔キョク〕」はとくに興味深く読みました。ただ、様々な解釈を生み出す詩というものを論じることは容易ではない、と感じました。詩を分類して歴史を総括する、というような方法をとるとしても難しそう。

中国の現代文学のなかで定番といえば莫言、高行健など、フェミニズムの観点からみた時興味深い対象は鉄凝、衛慧、棉棉、木子美、周縁から中国を問い直す人たちとしてはザシダワ、アーライがいる、というふうに、一般的な評価を知る上でよくまとまっていて分かりやすいです。

「第十章 わたしたちはどこへ行くのか? グローバリゼーション下の都市文化」を読みながら、なぜ日本の現代文化は中国に伝播しているのに、中国の現代文化は日本にあまり伝播しないのか考えてみたい、と感じました。それから、なんとなく中国のネット小説と日本のケータイ小説を比較してみたら面白いかも知れないと感じました。

尾崎文昭「第一章 「改革と開放」政策のもたらしたもの 一九九〇年代の文化とメディアの状況」
関根謙「第二章 「集団幻想」からの脱却 中国一九六〇年世代の挑戦」
白水紀子「第三章 活躍する女性作家 鉄凝『大浴女』にみる娘の成長物語」
佐藤普美子「第四章 現代漢語詩歌の模索 一九九〇年代詩歌の諸相」
飯塚容「第五章 小劇場、前衛劇の試み 林兆華、孟京輝から李六乙、田沁〔キョク〕」
藤井省三「第六章 魔術的リアリズムが描く中国農村 鄭義、莫言と大江健三郎」
飯塚容「第七章 「人称」の実験と「多声部」の試み ノーベル賞作家、高行健の小説と戯曲」
山口守「第八章 夜の対話からマイナー文学まで 史鉄生、ザシダワ、アーライ」
桑島道夫「第九章 「新人類」作家の登場 「身体で書く」女性作家、衛慧、棉棉、そして木子美」
千野拓政「第十章 わたしたちはどこへ行くのか? グローバリゼーション下の都市文化」

6/17 『緑茶』

『緑茶』(2002)は、張元監督による中国の恋愛映画。

三人?の登場人物を中心にして物語はすすみます。最近女性に振られたと語る中年男、陳明亮(姜文)。奇妙な友人の物語を語りつづける堅物の大学院生、呉芳(趙薇)。それから、呉芳と瓜二つの容貌で、誘われたら誰の相手でもすると噂の美貌のピアニスト、朗朗(趙薇)。

陳明亮と呉芳はお見合いの席でたまたまた出会います。陳明亮は呉芳を追いかけますが、呉芳は陳明亮に対して奇妙な友人の物語を語り、一方では毎日のように様々なお見合いに出かけます。陳明亮は友人から唆されて、朗朗を誘います。陳明亮は、朗朗が呉芳とよく似ていることに驚いて問い詰めますが、朗朗は全く相手にしません。朗朗と呉芳が同一人物なのかそうではないのか陳明亮は混乱します。

また、呉芳の語る奇妙な友人の物語は、実際は呉芳自身の体験のようであり、父親殺しや母親の服役といった重い話題にまで発展していきます。

張元は「中国第六世代監督」の旗手の1人として数々の国際的な映画祭で評価されています。しかし、1998年まで張元は公式には映画撮影を禁止されてインディペンデント映画の世界で活動しており、中国で彼の映画が上映されることもなかったそうです。もしかしたら、中国ではあまり知られていないかも知れません。賈樟柯と似たようなパターンです。

国外の人たちが日本に対して抱いているイメージと、国内の人たちが日本に対して抱いているイメージが大きく乖離しているのではないか、と感じることはよくあります。同じように、中国のイメージも、国内と国外では大きく異なるはずです。そのずれに関して考えることができたら、非常に面白いのではないか、と映画を見ていて感じました。

『緑茶』は、張元が本格的にメジャーな映画界に戻った後制作された作品だそうです。商業映画であることを強く意識していると一般的には評価されており、陳明亮を演じているのは姜文、呉芳と朗朗の二役を演じているのは趙薇です。ただ、決して単純明快というわけではなく、不自然なほど登場人物の顔に寄るカメラワークや観客を謎に落とし込む展開は興味深いです。

6/14 『中国現代文学珠玉選』いろいろ

いま『中国現代文学珠玉選』収録の日本語に翻訳された魯迅「孔乙己」、葉聖陶「隔たり」、郁達夫「蔦蘿行」、郭沫若「岐路」などを読んでいる最中。

とくに、葉聖陶「隔たり」(1922)は面白かったです。

主人公は、久しぶりに町に帰り、親戚友人に会う時、同じ会話が何十度も繰り返されることを予期します。そして、どうせ繰り返すしかないならば、「お互いにこれから言おうとする話を蓄音機のレコード盤に収め、お互いに送りあい、繰り返しを省いたら良いのではないか」と考えつきます。
結局、主人公は、町で様々な人に会うのに、最後まで他者との間に隔たりを覚えます。そして、全員が本心で語り合うことのない現状を自覚しながらそれに疲れて何もできません。

様々な読みが可能ですが、素直に読むとすれば疎外の問題が扱われていると言えそうです。描かれているのは、内面の感情と外部に向けた感情発露の乖離、交流の不可能性、現実に対する無力感、内面の疎外など。その背景にあるのは、自己の内面という前提やメタな視点から現実を捉える思考です。中国語の原文でも読んでみたい、と感じました。

6/4 汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-」

6/4
汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-」(『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』収録)は、中国において1960年代が正面から語られないことを問題にした文章。

汪暉は、現在の世界が好ましくない「脱政治化」に向かっていると指摘します。そして、20世紀の政治は政党と国家を中心に展開されてきたが、資本主義の強化によってその二つが危機に瀕しており、政治領域の縮小と固定化が進んでいる、と示します。その現象は著者によれば、旧西側諸国でも旧東側諸国でも進行しており、国家の公共的選択に対する資本の利益追求の影響や政党の代表性の欠如から見てとることができるとします。そして、最終的には政治領域の再規定が必要であり、 「再政治化」を目指して政治空間や政治生活の活性化をはかるべきと結論付けます。
著者は文化大革命には当初、政治の活発化を目指す性質があったと評価しているようです。文化大革命を前近代の単なる復活とみるのではなく、むしろ近代の産物とみている、といえます。そして、文革の全面否定によって隠蔽される問題がある、と指摘します。その点が非常に興味深いです。文化大革命の全面否定によって、平等を目指す運動が途絶していることに対して危惧を抱いているようにみえます。自由と平等を対置した場合、汪暉は平等の再評価が必要だとみなしている側にあります。

西洋の哲学の概念に詳しくないので理解に苦しむ点もありましたが、全体としては整理された議論であり、わかりやすいと感じました。ただ、六四天安門事件をどう捉えるのか、というもう一つの問題と組み合わせて「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治 をめぐって-」を読むと非常に考えさせられます。汪暉は、現在、様々な運動が「脱政治化」の潮流によって無意味なものに転化されていることを指摘します。そして、現在、中国の状況下において、自由化や市場化などを含むグローバル化の推進を安易に要求することは、世界的な「脱政治化」の潮流と無意識の共犯関係を取り結ぶことになりかねない、と示唆しているようです。

日本との関わりから考えると、中国において再び階級化が進行しているが改善されていない、という指摘が興味深いです。日本では貧困が2000年代大きな社会問題として取り上げられました。具体的にはワーキングプアや年越し派遣村に関する報道によって、貧困が可視化されました。しかし、現在その傾向は収束傾向にあります。また、教育学の方面では苅谷剛彦などによって階級の固定化が進んでいるのではないかという指摘が提出されていますが一般化はしていません。貧困が認知されない点では日本も深刻な問題を抱えているのでは、と指摘することも可能です。

柄谷行人が、2011年03月06日、東日本大震災が来る直前に『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』を肯定的に評価する書評を発表しています。最近の柄谷行人による中国に関する思索や評価、それから汪暉の影響に関しても考えてみると興味深いです。