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中国文学映画関連 備忘録

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読みたい・・・


『血を売る男』余華著 ; 飯塚容訳
『我们生活在巨大的差距里』余华著
『看见』柴静著
『丁玲自伝』丁玲著/田畑佐和子訳
は今年中に読みたい

あと、余華が言及している本に関しても読むべきかも。
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『我们生活在巨大的差距里』収録エッセイ2

给塞缪尔・费舍尓讲故事
余華が、擬人化されたあるドイツの出版社に対して、魚捕りに関わる逸話を語りかける物語

一九八七年『收获』第五期
デビューした頃の動向に関して。巴金がいたから『收获』は弾圧を受けず、『收获』に掲載されている先鋒文学も成長できたと記されていて興味深いです。

巴金很好地走了
巴金が亡くなった際、巴金に対する敬愛を表明したエッセイ

我的文学白日梦
文学に対する考え方の変遷に関して『兄弟』が契機になったとのこと。

荒诞是什么
様々な種類のデカダンスがある、という著者の考えを綴ったエッセイ。

飞翔和变形
神話・伝説の中に頻出する飛翔と変形も、細部がこだわられてこそ、リアリティを持つ、ということを様々な文学をあげながら説明したもの

生与死,死而复生
『飞翔和变形』の続編。今度は生や死、復活に関して。

奥克斯福的威廉• 福克纳
フォークナーの生誕地や墓地を訪ねた時のはなし。マルケスも最後に登場します。

西格弗里德• 伦茨的『德语课』
レンズの『国語の時間』の話題によってアルバニアの作家とも盛り上がったというはなし。

我的阿尔维德• 法尓克式的生活
ストリンドベリの『赤い部屋』にまつわるはなし。

『我们生活在巨大的差距里』収録エッセイ

2009年9月28日、北京地下鉄4号線が開業、人民大学駅ができて便利になった、と余華のエッセイ「七天日记」に記されていて、北京の交通の歴史に興味を持ちました。10月1日、胡錦濤が国慶節に行った60周年軍事パレードのことも記されていますが、前回と今年のパレードを比較して、どう国外と国内の状況が変化したかを考えても面白そう。また、「録像帯电影」では、89年に、朱偉の家で蘇童と初めて対面した事に言及していて面白かったです。

その他「一个记忆回来了」(血と暴力に溢れる小説を書かなくなった理由)、「我们生活在巨大的差距里」(中国の急激な変化と巨大な格差に関して)、「一个国家,両个世界」(家族と個人の価値が大きく変化して様変わりした中国に関して)、「哀悼日」(地震の記憶に関して)、「奥运会与比尓• 盖茨之杠杆」(中国を驚かせたあるデマに関するはなし)、「最安静的夏天」(北京オリンピック時の厳重警戒がもたらした北京の静けさに関して)、「七天日记」(2009年9月26日から10月2日までの日記)、「録像帯电影」(魯迅文学院にいた頃数多くの映画を見たというはなし)。(『我们生活在巨大的差距里』収録)

『血を売る男』余華著 ; 飯塚容訳、『我们生活在巨大的差距里』余华著、『看见』柴静著、『丁玲自伝』丁玲著/田畑佐和子訳は今年中に読み終えたい・・・

気になる映画、ドラマなど

見終わったもの
映画
《马路天使》(1935■袁牧之■赵丹、周璇)
《红高粱》(1987■张艺谋■姜文、巩俐、滕汝骏)
《客途秋恨》(1990■许鞍华■陆小芬、张曼玉)
《活着》(1993■张艺谋■葛优、巩俐)
《霸王别姬》(1993■陈凯歌■张国荣、巩俐、张丰毅)
《饮食男女》(1994■李安■郎雄、吴倩莲、杨贵媚、王渝文)
《好男好女》(1995■侯孝贤■伊能静、林强、高捷)
《鬼子来了》(2000■姜文■姜文、姜鸿波、香川照之)
《绿茶》(2002■張元■姜文、趙薇)
《梅兰芳》(2008■陈凯歌■黎明、章子怡、陈红、孙红雷)
《让子弹飞》(2010■姜文■姜文、周润发、葛优、刘嘉玲、陈坤)
《中国合伙人》(2013■陈可辛■黄晓明、邓超、佟大为)
《天注定》(2013■贾樟柯■姜武、王宝强、赵涛、罗蓝山)


ドラマ
《海派甜心》(2009■林合隆■罗志祥、杨丞琳)
《单身公主相亲记》(2010■陈铭章■林志颖、赵靓、郭品超、陈彦妃、洪小玲)
《醉后决定爱上你》(2011■陈铭章■杨丞琳、张孝全、王传一、 许玮甯)
《我可能不会爱你》(2011■瞿友宁■林依晨、陈柏霖)


少しだけ見た・・・
还珠格格、恶魔在身边、下一站幸福、神雕侠侣、换换爱、爱情公寓


見たい
人间四月天、仙剑奇侠传、离婚律师、露水红颜、我们结婚吧、血色浪漫、军人机密、闯关东、六小龄童的西游记、爱情回来了、陆贞传奇、兰陵王、甄嬛传、男人帮、画皮、水浒传、北京人在纽约、北平无战事、康熙王朝、长沙会战、大明宫词、神探狄仁杰、痞子英雄、恶作剧之吻、大醫院小醫師、六小龄童的西游记、爱情回来了、陆贞传奇、兰陵王、甄嬛传、爱情公寓、离婚律师、仙剑奇侠传、男人帮、画皮、露水红颜、我们结婚吧、血色浪漫、、军人机密、闯关东、神雕侠侣、北京人在纽约北平无战事、康熙王朝、长沙会战、大明宫词、红字、神探狄仁杰、武则天、恶魔在身边、人间四月天、痞子英雄、恶作剧之吻、大醫院小醫師、家有儿女、心术、命中注定我爱你、武媚娘传奇、武林外传、花样年华、神话电视剧版、情景喜剧、封神榜、一代宗师、犀利人妻、看惡作劇之吻、痞子英雄、艋舺的女人、熱海戀歌、歌謠風華-初聲、我爱我家、金蛇郎君、危險心靈、他們在畢業的前一天爆炸、爱情回来了、疯狂的石头 无人区 钢的琴 万箭穿心 阿飞正传 重庆森林 堕落天使、魔法阿媽、奋斗、神探狄仁杰、裸婚时代、下一站幸福、雪山飛狐、暗算、匆匆那年

5/24『活きる』(《活着》・1993年)

『活きる』(《活着》・1993年)は張芸謀監督が制作した映画作品。余華の小説を原作としており、第二次世界大戦前後から文化大革命にいたるまでの激動の時代を生きた中国のひとにスポットをあてています。

1940年代の国共内戦、1950年代の大躍進、1960年代の文化大革命などを背景として、その中で生きるひとたちを描き出しています。世界的に評価されましたが、中国では政治的な理由のため放送禁止になりました。

映画上映をお手伝いして、改めて見直すことができて良かったです。物語の軸となるのは、福貴(葛優)、家珍(鞏俐)夫婦の物語。

放蕩息子の福貴は賭博に負けて屋敷を失い、妻の家珍は賭博をやめないので彼のもとを去ります。すべてを失ったかに思えましたが、賭博をやめた後家珍が戻ってきたので、福貴は影絵芝居をして、家珍と二人の子ども(鳳霞、有慶)を養います。国民党軍に捕まると従軍して、大砲をひきます。こんどは共産党軍に捕まると兵士を慰撫するため影絵芝居を行います。その後国共内戦が終わると福貴は帰郷して家珍と再会して、生活を回復します。50年代、大躍進が始まると、上流階級は一斉に弾圧されます。時には見せしめのための処刑も行われました。各家庭は鉄を供出して砲弾を作るための鉄塊を練り上げることになります。福貴は工場で人々を奮い立たせるため影絵芝居を行い、評価されます。しかし、区長に出世していた旧友・春生が起こした自動車事故で有慶を失います。60年代、文化大革命がはじまると、知識人や当時の統治者に対する批判と弾圧の嵐が吹き荒れて、毛沢東を崇拝する紅衛兵が主要な施設を占拠します。その環境下にありながら、鳳霞はぶじに良いひとと出会い

結婚、妊娠します。出産の際、赤子・饅頭は無事に生まれます。しかし、鳳霞は経験不足の若い看護士たちのミスにより流血がとまらなくて死亡します。福貴は、病身の家珍を看病しながら、孫である饅頭を育てていくことになります。。。

幸福のあとには不幸が、不幸のあとには幸福がつらなるようにして訪れます。その二つは表裏一体のようになっています。たとえば、福貴は賭博によって屋敷を失いますが、その結果として皮肉なことに共産党政権が成立したあと地主に認定されず助かります。一方、娘・鳳霞が孫を生んだ時には、若い看護士たちのミスにより娘が命を落とすことになります。その上、ある一つの場面において悲劇と喜劇が混然一体となっていることも特徴です。笑うべきなのか泣くべきなのか分からない場面もあります。

物語は、全体としては確実なものがどこにもない、非常にシュールな世界を描いています。共産党政権下で成功して地位を得た人たちは、文化大革命が始まると、走資派と認定されて一転して迫害を受けることになります。断続的に社会が変動、そのたびに立場や位置付けが完全に逆転して、敵とみなされたものに対する迫害の嵐が巻き起こるとしたら信じられるものはなくなります。しかし、過去の中国は実際にそのような状況にあったのだということを映画は端的に示そうとしています。

余華の原作との共通点や相違点もまた興味深いです。映画版が描き出した、希望を感じさせるようなラストシーンは印象に残ります。救いがあることによって、映画としてはみやすくなっているように思われます。

『活きる』は、中国人が、中国の歴史をどのように対象化しようとしてきたのか、といったことを考える際きわめて大きな手がかりになります。歴史の捉え方には、歴史を捉えようとする人の関心が反映されるものであり、逆に観察者の思想や関心のあり方によって再構成されたものが歴史といえます。第二次世界大戦や大躍進、文化大革命、改革開放の記憶をどのように再構成して解釈するのか、という問題は、その結果としての現在をどのように評価するのかという問題とつながっています。大躍進や文化大革命を不合理な一時的脱線とみなして、中国は一貫して進歩していくべきだと考えるのか。あるいは、進歩やモダニズムを両義的なものとして再考するべきだと考えるのか。 『活きる』はどちらかといえば後者に属するのでは、と今考えていますが、少なくとも単純に枠に当てはめて解釈することができる作品ではないと感じます。