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中国文学映画関連 備忘録

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俞利军《余华与川端康成比较研究》

《余华与川端康成比较研究》は兪利軍による余華と川端康成の比較研究。

もともと《外国文学研究》2001年第1期に掲載。

基本的には、余華が川端康成の作品『伊豆の踊子』などを読みふけっていた、という記述に基づいて、両者の共通点と相違点を挙げていくものになっています。

・余華と川端康成の少年期と青年期は恵まれていない点で共通している←疑問有
共通点
⇒川端康成は幼い頃にほとんどの肉親を失い、ほとんど失明した祖父とともに生活。
⇒余華は、父親は医者、母親は看護師、ほとんど構ってもらうことがなく、兄に苛められる

相違点
⇒川端康成が向き合ったのは祖父の老衰と失明
⇒余華が対峙したのは兄の権力
それが、二人の作風に影響した。

共通点
⇒川端康成の初期端篇『伊豆の踊子』 寄宿生活の影響から自然への憧憬へ
⇒余華の初期短編《第一宿舎》は川端康成の影響が深い。《疯孩子》も寄宿生活の影響

共通点
⇒川端康成は社会が激変しているが、政治には関心を持たず回避して、かえって周縁におかれた人に目を向ける
⇒川端康成をこのむ余華は柔らかく細やかな作品からひっそりとした美が情緒に富むとまなぶ。そのあらわれのことば「虽是微小的人生,而我觉得是咀嚼不尽的」


共通点
・小人物への注視・社会の下層にいる人への関心
・極端な個人主義、極端な視点(虫の死を細かく観察、など)
・奇妙な比喩、『温泉宿』、『禽獣』のラスト(死にゆく娘の化粧姿がお嫁に行くみたい)
 東洋の言語だからこその象徴性

相違点
・余華のほうがユーモアの要素が多い
・あとになって余華の作品は変化していく。川端の影響から、カフカの影響へ


⇒ふたご座の川端はあるスタイルの創作に厳格に依拠して、哀傷はあるが憤怒はない、苦しみうめくことはあっても反抗はない。虚無と絶望を用いて、潜在意識と無意識の行動を用いて、現実に対する反応をおこなおうとした
⇒牡羊座の余華は敵対、緊張、利己、残忍、暴力、さらに多くの思想を含む。「叫ぶ胡蝶」「灿烂」「响亮」「暴力」

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余华《温暖和百感交集的旅程》収録エッセイ3

《温暖和百感交集的旅程》は、余華のエッセイ集。
《读书》という雑誌の連載をまとめたものだそうです。

「山鲁佐德的故事」
『千一夜物語』に関して余華の読解が示されています。言及されるのは、第351夜など。細かい点が重大な結末に結びつく、その妙について。

その他、細かい点が重大な出来事を決定するということを描き出した人としてシェークスピア『ベニスの商人』、ステファン・ツヴァイクなどに言及。ツヴァイクの記述としてあげられる例は、オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼすことができたのは小さな門があいていたため、ナポレオンの滅亡を決定付けたのは命令を墨守した将軍グルーシーのため。


「三岛由纪夫的写作与生活」
三島由紀夫という人物の自害に関して言及しています。非常に意味深長なフレーズが多いです。たとえば、「創作と生活は、一人の作家にとって言えば、二重でなければならない」など。

文章の最後の部分は出色。「三島由紀夫は自殺の前、二つの事で完全に安心できなかった。一つは『豊饒の海』英訳版のアメリカ出版のこと、もう一つは自分の死が隠蔽されないかという心配だ。彼の自殺が引き起こす社会の反応への関心は、一部の作品を世に問うた後の反応への関心と同じであり、あるいは彼は後者に対してさらに心配していた。だから彼の最後の作品は『豊饒の海』ではなく、切腹自殺だった。生命の最後の時に、三島由紀夫の作品の中で憧れていた死と鮮血は、遂に立ち上がり、死と鮮血は三島由紀夫を叙述した。」

「内心之死」
心理描写とは何か、という問いに対する余華の答え。最も描くべき様々な感情が渦巻く時の心理は描写できない、という主張。

言及されるのは、アーネスト・ヘミングウェイ「白い象のような山並み」とアラン・ロブ=グリエ『嫉妬』の叙述。ヘミングウェイの剥き出しとグリエの淡々とした視線による描写。テーマはそれぞれ「堕胎」と暗示される「姦通」。

その後言及されるのは、フォークナー「Walsch?」とドストエフスキー『罪と罰』。二つの殺人の場面における殺人者の描写。そして、ドストエフスキーに通じるようなスタンダールの『赤と黒』の叙述に関して。

郑国庆《主体的泯灭与重生—余华论》

《主体的泯灭与重生—余华论》は郑国庆による余華論。
もともと《福建论坛》2000年第6期に収録。

余華の作品を発表された順番に沿って、読解していく論文。

・初期の三篇はみな同じような特徴を持っている
  (《十八岁出门远行》 《西北风呼啸的中午》 《四月三日事件》)
⇒十八歳・成人式を迎えた少年が、ファルス・父、言語、権力の中に分け入って行かざるを得ない展開となっている
⇒「私」が事件に巻き込まれていく。「私」が主体、その感情が問題となる。

・《一九八六年》は文革の創傷を扱っている。
⇒余華の叙述言語は、他の文革に関する文学と比べて、際立っている。なぜならば、他の文革に関する文学は終わった後の立場から「訴える」「悔やむ」「悼む」ものだが、余華は異なるからだ。
・余華の場合、狂人はもう一人の有名な名のある人物としてではなく、「現実主義」によって血肉や性格を持つ主体として描かれている。「訴える」「悔やむ」能力がなく、ただ自覚しないで心理上、行為上で恐怖の歴史を再現して、現実を歴史として誤る。

・《河边的错误》もまた狂人の物語だが、この狂人は抽象的で生理上の狂人。一人の人称がなく、性格がなく、心理がない「物」。
⇒無情な創作のあらわれ

・《偶然事件》では本当に力を持つものが姿をあらわす、つまり言語。

・《在细雨中呼喊》 苦難と苦悶の物語
⇒著者自身の立場からすれば、それは作風の変化ではなく、原点への回帰「生命の痛感」
⇒「私」に立ち返る

・民間形態への到達 《活着》《许三观卖血记》
⇒抽象的な類にかわって生き生きとした個人をもってくる
⇒単純化した比喩からも、叙述が、農民の立場からになっていると分かる
 知識分子の形式から民間の形式へ

・しかし、《活着》《许三观卖血记》の主題は異なる。前者は忍耐、後者は堅忍。

・「民間」にも欠点はある。それに関しても踏まえながら進んでいくべき。

余华《温暖和百感交集的旅程》収録エッセイ2

《温暖和百感交集的旅程》は、余華のエッセイ集。

《读书》という雑誌の連載をまとめたものだそうです。

「布尔加科夫与《大师和玛格丽特》」
ミハイル・ブルガーコフの執筆した『巨匠とマルガリータ』に関して。物語の中盤になってから主要な人物が登場する点に対する指摘、マルガリータという人物が著者自身にとってどのような意味を持っているのか、という考察など。

とくに「ユーモアと現実」という部分は出色。ユーモアを構造とした、という記述などは、余華自身の創作に対する解説になっていると読み解くことも可能ではないかと思われます。
「博尔赫斯的现实」
ボルヘスという奇妙な作家の在り方に関して。非常にわかりやすいボルヘス入門のようになっています。
「契诃夫的等待」
チェーホフの『三人姉妹』とベケット『ゴドーを待ちながら』における、「待つ」という行為の違いについて。また、『三人姉妹』と『ゴドーを待ちながら』を組み合わせた林兆華の作品に関して。

さらに、ダンテとプルーストの叙述に関しても考察。

レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』収録作品3

レイ・ブラッドベリ(1920~2012)はアメリカ合衆国のSF作家。
『ウは宇宙船のウ』はレイ・ブラッドベリの短編集。大西尹明による翻訳。


「この地に虎数匹おれり」
望むものを何でも具現化する惑星に降り立った宇宙飛行士たちの物語。最終的に一人の男だけが惑星にとどまることを選択します。非常に考えさせられる作品。

「いちご色の窓」
火星に降り立った後過去を懐かしみ、地球からさまざまなものを取り寄せる家族の物語。追憶がテーマになっています。

「竜」
ショートショート。騎士と龍がすれ違う物語。

「おくりもの」
クリスマスの夜に初めて宇宙船に乗り込んだ家族の物語。クリスマスツリーとプレゼントを船に持ち込むことができなかった父母は心配しますが。

「霜と炎」
苛烈な放射線などのため、時間のサイクルが早くなり、人間の寿命が8日間になってしまった世界で生きる男シムの物語。彼は宇宙船に乗ってその世界から脱出することを試みます。

「タイム・マシン」
非SF。少年がタイム・マシンがあるといって友人をフリーリー大佐のもとに誘う物語。フリーリー大佐は歴史的出来事をさまざまな語ります・・・

「駆けまわる夏の足音」
非SF。少年のダグラスが靴屋のショー・ウィンドーに飾られている真新しいテニス靴に手に入れる物語。少年は、その靴を手に入れるため条件を持ちかけます。